短編小説「遥かな海を渡るもの」

 叩きつけるような大雨にふられて、お気に入りの傘もすっかり壊れてしまった。小夏は骨の外れた傘を持って玄関から家の中に入った。

「おかえりなさい。学校早く終わったんだ」
「だって天気最悪なんだもん! あーあ、あたしのかわいい傘が……」

 中学に上がった頃に買ってもらった傘を強風に台無しにされ、わりとしょんぼりしている。お気に入りだったのに今は悲しい姿になっている。制服はびしょ濡れだし、部活はしばらくできなさそうだし、この天気のせいで悪いこと続きだった。

「本当におかしな天気。台風もないのに、どうしてこんなに雨ばっかり降るんだろうね」
「知らなーい。タオル取ってくる」

 バスタオルを取ってきて、体を拭いてから部屋着に着替えた。土砂降りの雨の音がうるさくて、つい外を眺めてしまう。

「もし長い間天気が悪くなるようなことがあったら、海に向かって口笛を吹いてほしい。あいつは口笛の音が好きだから」

 中学に入ってからずっと同じクラスで、ずっと好きだったのに、夏の終わりに転校していった。そんな男の子が言い残した言葉を思い返す。

「あいつって、誰のことよ」

 嫉妬深い恋人みたいなセリフだが、別に彼とは付き合っていたわけではない。片思い中に二人きりになれて、やっと告白しようかと思った時に、この言葉を言われたのだ。

 それも冗談めかした言葉ではなく、真剣に頼み事をするような感じで言ったのだ。小夏も面食らって、自分の告白もできずに別れてしまった。

 口笛を吹いてみる。全然うまくできない。かすれた音が少し出ただけで、まったくもって口笛とは呼べなさそうな状態だった。

「へたくそだなあ。そんなんじゃ口笛と言えないよ」
「なによ、兄ちゃんだって吹けないでしょ!」
「まあ確かにそうだけどさ。ところで最近なんで口笛なんか練習しはじめたんだ?」
「いいじゃん別に。吹いてみたくなったの」

 デリカシーのない兄は適当にあしらっておくことにした。それよりも大事なのは彼との約束だ。いくらからかわれようとも、この約束だけは果たさなければならない。

 不意にちゃんと口笛の音が鳴って、小夏は自分でも驚いた。甲高い音色は夕方の海に消えていった。

「で、できた! やった、鳴ったよ!」

 とても綺麗な音色が出て、ひとり喜んでいた。兄はいつの間にかリビングのソファで眠っていた。

「今のって小夏の口笛? うまくなったのねえ」
「まあね。これくらいできなきゃやってけないもんね」

 母親がキッチンから声をかけてきた。小夏は嬉しさのあまり本当のことを言いそうになったが、なんとかごまかした。彼との約束は自分だけの秘密にしたかった。なんだかその方がロマンチックな気がしたからだ。

 それからも、小夏は海に向かって口笛を吹き続けた。夕焼け空の下、もう海水浴客も来ない砂浜でひとり口笛を吹いていると、なんだか映画やドラマのヒロインになれたみたいで気分がよかった。

「ほんとうに天気良くなったなあ。あたしのおかげだったりして」

 そんな冗談をひとりで言って、にこにこしていた。降り続いた雨も小ぶりになって、今日はすっかり晴れている。

 口笛もすっかり上達した。綺麗な音を安定して出せるようになった。小夏の口笛は海の上を渡っていく。なんだかとても幸せな気分になれる。転校していった彼も口笛が好きだった。遠い町に引っ越してもつながっている気がした。

 不思議なことに、口笛を吹いている時にかすかな音が返ってくることがあった。巨大なラッパでも吹いているかのような、太く低い音。そんな音がごくわずかに小夏のいるところまで届いてくる。小夏も最近気づいたことだ。よく耳を澄まさなければ気にもしないだろう。

「小夏、また口笛の練習してんの?」
「そんなとこ! なんだか楽しくなってきちゃって」
「へえ、今回は飽き性じゃないみたいだな! ハマるのはいいけど、そろそろ日も暮れるぞ」
「もう少しだけここにいるよ。先帰ってて」

 兄は乗っていた自転車を家の前に停めて、玄関から家の中に入った。小夏の家は海の近くにあるので、浜辺からすぐ家に帰ることができる。もうしばらく夕焼け色のさざ波を見ていたくて、小夏はぼーっと海を眺めていた。

「なんだろ、あれ?」

 はるか遠く、海の上にこちらに近づいてくる小さなものが見えた。最初は船かと思ったが、よく目をこらしてみると海洋生物の背びれにも見えた。

「おーい」

 大きく手を振ってみた。ぎりぎりまで近づいてみたくて、砂浜から波止場にあがった。雲の切れ間から太陽の光が差し込んで、夕焼けは青とオレンジが混ざり合って綺麗だった。

「見えなくなっちゃった?」

 海の上を進んでいたものはいつの間にか見えなくなっていた。風が冷たくなっている。もう帰ろうと背を向けたはずが、いつの間にか足を滑らせていた。

 冷たい海水がうねり、小夏の小さな体がもみくちゃにされていく。息ができない。体が沈み、海面が遠のいていく。

「たすけ、て……」

 空気と一緒に吐き出した言葉は泡となって浮上していった。

 いつか聞いた鳴き声が地響きのように鳴り渡る。距離は決して遠くなく、猛スピードで近づいている。やっぱり変な鳴き声だ。遠ざかる意識の中で考えたことがそれだった。小夏はいつしか目を閉じ、水の中に沈もうとしていた。
 
 その前に彼女の体を引っぱり上げる者がいた。今まで泣き続けていたが、ようやく悲しむのを止めた。そして、大事な友達の言葉を覚えてくれていた少女を浜辺まで運んだ。

「……小夏! 小夏!!」

 父と母、兄の声が重なって聞こえる。こういう時にまで思い出にすがる女だったのかと、小夏はわりと自分を情けなく思った。

「あ、あれ? みんな?」

 目を開けてみれば、家族総出で海辺にいた。自分は砂浜に倒れていて、家族がそれを見つけたらしい。小夏が目を覚ますと、母が真っ先に抱き着いてきて、兄はぼろ泣きしていた。

「なんで海に近づいたんだ! こんな夜中に危ないだろ!!」
「ご、ごめんなさい。誰かが来たような気がしたの。声も聞こえた」

 父親に本気で叱られても、とんちんかんな言葉を言うことしかできなかった。混乱している訳でもなくて、本人にとってはまぎれもない事実だった。

 長く続いた暴風雨はもう過ぎ去った。あの鳴き声はもう聞こえない。遠くに行ってしまったのだろう。

「お父さん、小夏も混乱してるのよ」
「からかってごめん、本当にごめんよ」
「こっちは相当混乱してるね……」

 兄はなぜか自分がからかったせいだと思い込んで嗚咽していたが、家に着く頃にはなんとか誤解も解けた。

 翌日は久しぶりの快晴だった。すがすがしい秋晴れで、風が気持ちよかった。通学路を歩いていると、待ちかねた晴れ間に生徒たちも街の人々も喜んでいるのが見えた。

「あの約束、もう終わりなのか」

 小夏はなんとなくそう思った。少しさみしくなったが、不思議と悲しくはなかった。あの鳴き声の主も、友達ともう会えないという事実をちゃんと受け止めた。自分もそうするべきだ。

「おーい、小夏! まだ引きずってんの?」
「そんなんじゃないよ!」

 さっきまで切ない気持ちに浸っていたのに、呆れるほど元気な声が自分の口から出た。小夏は自分でも笑ってしまって、照れ隠しのように学校へと走っていった。

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