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【第12話】総カメラマン時代なのに写真雑誌が衰退する理由と一流の写真展で感じた違和感

いま、日本は総カメラマン時代といっても大袈裟ではないだろう。

一眼レフやミラーレスなど本格的カメラでなくとも、誰もがカバンやポケットにスマホを忍ばせている。

フィルム時代とは違って、スマホさえあれば、ノーコストで写真が撮れるのだから、かつて経験したことのない「総カメラマン時代」に突入したのである。

にもかかわらず、アサヒカメラや日本カメラといった日本を代表する老舗写真誌が退場した。写真を撮る行為が特別なことではなくなった以上、お金を出してまでノウハウや写真家の作例を見る必要もないという空気なのかもしれない。

撮影技術がなくてもスマホは十分に鑑賞に耐えうる写真を残してくれる。最新のiPhoneなどは下手なカメラやレンズ顔負けである。

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(PENTAX KP +smc PENTAX-DA 50-200mm F4-5.6 ED)

SNS上には一般人が撮影した写真が溢れかえっている。手軽に撮影できる写真生活が根付いたというのに写真誌やカメラ産業が衰退しているのは皮肉な現象だ。

ただ、なんとなく、その要因が分かるような気がする。

ツイッターのフォロワーを見ていても、毎日、熱心に写真を撮影しているカメラ愛好家は新品ではなく中古を購入し、そのスペック能力を最大限に活かそうとしている。

逆に、週に一度か、月に数度しか撮影しない人は、意外に次々登場する新型カメラやレンズに心を翻弄されている。

ただ、私の皮膚感覚では、後者よりも前者の中古族が圧倒的多数なのだ。新品が売れずにカメラ産業が衰退しているのだから、当然、雑誌の広告は減少するはずである。

そんなカメラ雑誌やカメラ産業が衰退するなか、先日、東京都写真美術館に足を運んだ。

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(SONY α7RⅢ + Sigma 28-70mm F2.8)

日本写真家協会の創立70周年記念「日本の現代写真1985〜2015」と銘打った写真展示会を鑑賞するためだ。

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(SONY α7RⅢ + Sigma 28-70mm F2.8)

この写真展には、1985年から2015年に発表された152点が展示されている。写真家が誰かということよりも、その作品が時代背景を語れるかどうかを重視して選考されたという。

会場に入ってまもなく登場したのが、今連載の第8話で取り上げた写真家・鋤田正義(すきた・まさよし)さんの作品。1989年に撮影したデヴィッド・ボウイの正面アップ写真で力強くも憂いを帯びた視線と無精髭が印象的だった。人物の背景に時代を象徴する被写体がなくても、ボウイそのものが当時の時代を象徴していると解釈した。

展示作品は、写真家ではなく作品の語る時代性で選んだとはいっても、山内道雄、宇井眞紀子、上田義彦、石内都、深瀬昌久、長島有里枝、細江英公、荒木経惟、篠山紀信、繰上和美、立木義浩、森山大道、須田一政、長野重一、鷲尾倫夫、平敷兼七、ハービー山口ら、錚々たるメンバーだ。

ひとつの会場で1985年から2015年までの秀逸な作品を鑑賞できる機会はそうそうあるものではない。しかも、入場料は1000円とレジャーとしても決して高くはない。

にもかかわらず、私が訪問したのは平日のせいかもしれないが、閑散としてた。それゆえ、じっくりと時間をかけて鑑賞できたが、一方で、少し寂しい気分だった。まるで、いまの写真界の実情を象徴しているかのように感じたのだ。

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(SONY α7RⅢ + Sigma 28-70mm F2.8)

多くの人たちに、この展示会の存在を知ってもらいたいと考え、本稿を書いたのだが、コロナ感染拡大による東京都の緊急事態措置で「日本の現代写真1985〜2015」展示会は4月25日から中止となってしまった。

日本写真家協会は何らかの形でリバイバルを検討してはどうか。

時代を映し撮った作品から感じとることは少なくなかった。カメラ・写真をめぐる環境が斜陽の時代。たとえ一人でも感動して帰ってくれたら開催した甲斐があったというくらいの柔らかい気持ちでいいと思う。


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