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【第10話】カメラの力〜生と死とライカ

人間の脳は優秀だ。見えない映像を補ってくれる。

例えば、川端康成の名作「雪国」はこんな書き出しで始まる。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

詳細な説明がなくても、トンネルを抜けた瞬間、一面に広がる雪景色の映像を想像するはずだ。私たちの脳は文章や行間を映像情報に変換して補完してくれるのだ。

学生時代、私は映画製作していたが、映画はチーム活動なので、とかく面倒なことも多かった。そんなこんなで、私は下手な映像や写真よりも文章の方が心に残る映像を脳内提供できるのではないかと考えた。

大学卒業後、文章を学びつつ生活したわけだが、いつしかカメラの伝える力には勝てないと悟った。

そう思わせてくれたのは沢田教一である。

米軍の爆撃から逃れ、必死に川を渡る2組の親子を撮影した「安全への逃避」(1965年9月6日)は、ベトナム戦争の現実を世界中に伝えた写真としてピュリツァー賞を受賞。カンボジア難民の写真も1970年に「ロバート・キャパ賞」を受賞した。

戦争の悲惨さは俯瞰や遠景ではなかなか伝わらない。しかし、生身の人間が写り込む距離まで近づくと、一気に戦争の本質が見えてくる。沢田は被写体に可能な限り近づき、シャッターを切り続けた。

その視線の先にあったのはなにか。

戦争で最も悲惨な貧困や恐怖に追い込まれるのは、政治家や軍人ではなく、常に無力な庶民であるという現実を世界に伝えたいという意志だったと思う。

沢田は私の母校・県立青森高校で寺山修司と同級生だった。私が高校時代、国語の先生が寺山らと同級生だったので、寺山修司の話はよく聞かされた。しかし、沢田のことは話題にしなかった。

沢田は1970年、カンボジアの取材中に34歳の若さで凶弾に倒れた。私が高校時代、すでに他界していたので、国語の先生も授業で話題にするのは、はばかれたのかもしれない。

大学卒業後、私はペンで生活する人生を選択したが、いろいろなドキュメンタリー写真も好きで、なかでも沢田の写真は伝える力が群を抜いていた。沢田を知らない人はWikipediaを参考にしてほしい。

沢田の写真はベトナム戦争の終結を2年早めたとも言われる。

何が彼を戦場に駆り立てたのか。彼の経歴を見ると、経済的な理由ではない。東南アジアの現実は青森で生まれ育った沢田の心に共振する何かがあったのだろうと思う。

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というわけで、ここから「寫眞機余話」的な雑談に入りたい。

沢田氏は戦場では主にライカを多用した。望遠はニコンFで撮影していたと言われる。ピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」もライカM3に135㎜のレンズ、フィルムはトライXで撮影したと記録されている。

彼が戦場で使用したのは、黒ボディのライカではなく、銀メッキのライカである。ピュリツァー賞受賞後、高校時代の同級生が「光るカメラは危険だから、これを持っていけ」と、黒ボディのニコンFを渡したという。

はたして私が若い頃に戦場でペン取材し、「安全への逃避」のような場面に遭遇したとき、川を逃げる2組の親子の姿を感動を伴う文章で描くことができただろうか。おそらく、その悲惨さは満足に伝えることができなかったと思う。「カメラはペンより強し」だと感じている。

しかし、シャッターを切るのは人間である。結局のところ、ペンもカメラも人間の勇気と技術と心が左右する道具である。その人間力をカメラは問いかけている。

伝える力が絶大なカメラを私たちは趣味の道具にしている。一方で、いま、ミャンマーでは市民を守るべき警察や軍隊が連日、多数の市民を殺傷している。

その市民が自分のスマホやカメラで撮影した映像や写真を見て、私はミャンマーの現実を知った。国際社会は映像や写真で現実を知っても、有効な手を打てずにいる。そして、日々、今日もまた多数の命が消えている。

だからといって、何もアマチュアカメラマンがカメラ機材を抱えて現場に入る必要はない。それはプロの写真家の仕事である。

SNS上には、星の数ほど素敵な写真がアップロードされている。どれも美しいし、平和を実感する。一方で「いいね」に一喜一憂する生活に疲れ、落胆し、カメラや写真から離れる人もいる。とても気の毒なことである。

カメラの伝える力は絶大だ。この優れたカメラと、どう向き合えば、いいのだろうか?

次回は、何のために我々は趣味でカメラ撮影するのか考えてみたい。

【追伸】変貌する渋谷と変わらぬ渋谷をPENTAX K-1 MarkⅡでスナップした写真をブログでアップしました。ご興味のある方はご覧になってください。


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