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アフリカ葡語圏の人とのファーストコンタクト

私が初めてアフリカを訪れたのは1997年ですが、その遥か7年前に、とあるアフリカ葡語圏の人と出会った話をさせて下さい。

その人は、友人の知人の更に知人の方で、日本人男性と結婚しているポルトガル国籍のアンゴラ人女性でした。

アンゴラでは、1961年から1974年という、なんと13年もの長きにわたり独立戦争が繰り広げられ、1974年6月に停戦合意に至り、1975年1月15日に正式にポルトガルから独立を果たしました。

ここで早くも余談ですが、アンゴラでは2月4日の開戦記念日が祝日です。「えっ、終戦記念日じゃなくて?」と良く聞かれますが、それまで宗主国の言いなりになっていた自国民が「独立を勝ち取るために立ち上がった日」という意味で非常に重要なわけです。ちなみに日本も、もし第二次世界大戦で勝利を収めていて、それを機に国が発展を遂げていたとしたら、はたして「終戦記念日」じゃなくて「開戦記念日」を祝っていたのかしらん、などと考えてしまいますが...。

さて、話を戻します。

しかしながら、その僅か1か月後には内戦が燻り始め、それがなんと2002年まで続いたたのです。つまり、アンゴラは合計で40年以上戦時下にあったという悲惨な歴史を抱えているわけですが、その内戦の行く末がまだ見えない独立戦争の終戦からまもなく、両国政府は、一旦ポルトガルに引き上げた在アンゴラポルトガル人でアンゴラに戻りたい者にはアンゴラ国籍を、逆に、ポルトガルに住むことを希望する者にはポルトガル国籍を与えるという合意に至りました。

その結果、アンゴラで商売を営んでいた裕福なポルトガル人商店主などにはアンゴラ人に帰化した人もいて、そのためポルトガル系白人のアンゴラ人も結構いたりするのですが、一方のアンゴラ人も、特権階級の人で内戦の火種に敏感に反応した者の中にはポルトガル人になることを選んだ人もいたというわけです。

その女性の場合は、少女時代に独立戦争の終戦を迎え、ポルトガル人になることを選んだ両親とともにポルトガルに渡ったのだそうです。

その後、新たな祖国であるポルトガルで後に夫となる男性と巡り合い結婚、彼の仕事の都合で日本に住んだり、ブラジルを含む南米諸国に住んだりしてきたのだと伺いました。

明朗快活・良妻賢母で流暢な日本語もしゃべる彼女には、合計4~5回お目にかかる機会があり、ポルトガルのことや、かつて美しかった祖国アンゴラの首都ルアンダが如何に内戦で疲弊してしまったかなど、それまで知る由もなかったことをいろいろと教えて頂きました。

そんな中、ブラジルのポルトガル語こそカッコイイに決まっていると信じて疑わなかった当時の私は、思い付きで彼女に、「ポルトガルでもブラジルのテレビドラマが流行っていると聞くけれど、ブラジルの言葉が流行ったりもするんじゃないの?」と訊ねたことがありました。

すると、頭の回転が速い彼女に間髪を入れず「日本でも、いくら連続テレビ小説『おしん』が人気になったからといって、山形弁や佐賀弁が流行るようなことはなかったでしょう?そういうことよ」と、バサッと一掃されてしまいました。

まさに目から鱗とはこのこと、「なるほど、そういうことか!」と、安易にそのようなことを訊ねたことを深く反省したと同時に、両国間の「言葉の壁の厚さ」を初めて知ったのでした。

でも、その時点では、よもやその後私自身が40回以上も彼女の生まれ故郷を訪れることになろうとは知る由もなく、まもなく友人の知人はブラジルに帰国、彼女もご主人の新たな赴任先へと移り住み、インターネットも普及しておらず国際電話もまだ高かった時代のこと、残念ながら、音信不通となってしまいました。

いつかまた彼女に巡り合うことが出来たなら、頭の中が180度とは言わないまでもガラッと変わって、彼女の国の言葉までしゃべれるようになってしまった私を見てほしいものだ… なーんて思ったりする今日この頃なのです。


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