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アンゴラ&モザンビーク

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1990年代後半のアンゴラ共和国やモザンビーク共和国の様子や現地での経験、その後の変貌などをマガジンにまとめていきます。 ヘッダー画像は南部ウイラ州とナミベ州を結ぶいろは坂、否、… もっと読む
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2021年1月の記事一覧

アフリカ葡語圏の人とのファーストコンタクト

私が初めてアフリカを訪れたのは1997年ですが、その遥か7年前に、とあるアフリカ葡語圏の人と出会った話をさせて下さい。 その人は、友人の知人の更に知人の方で、日本人男性と結婚しているポルトガル国籍のアンゴラ人女性でした。 アンゴラでは、1961年から1974年という、なんと13年もの長きにわたり独立戦争が繰り広げられ、1974年6月に停戦合意に至り、1975年1月15日に正式にポルトガルから独立を果たしました。 ここで早くも余談ですが、アンゴラでは2月4日の開戦記念日が

モザンビークの治安

モザンビークの警察は評判が悪く、外務省HPの「安全対策基礎データ」 (https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_123.html) などにも警察官による恐喝などについて記されています。 給料が安く、モラルが低いことが主な原因なのでしょうが、 警察でさえそのような状況ですから、 全体的な治安も良いわけがありません。 しかも、 モザンビークの場合、治安が悪くなったのには 特記すべき経緯があります。 その昔、モザンビ

1997年当時のアンゴラ共和国(1)

私が初めてアンゴラ共和国を訪れたのは1997年のことでした。 終戦が2002年ですので、まだ戦時中のことです。 パリでビザを取得し、日付けが変わった夜半に出発するエアフランスに乗り込むと、隣にはすごーくおしゃべりなテキサス人の石油屋のおっちゃんが 座っており、話し掛けてくるのでしばらく相手をしたものの、周りにも迷惑だし、なんてったってテキサス弁は解り難い…。どうにもこうにも辛過ぎたので、仕舞いには寝たふりをしてしまいました…。ソーリー、おっちゃん! 目が覚めると早々に朝

1997年当時のアンゴラ(2)

この記事は「1997年当時のアンゴラ(1)」↓ の続きです。 当時のルアンダの「Marginal (マルジナーウ)」と呼ばれる海沿いの目抜き通りには、ほとんど店らしい店もなく、商店であったであろうショーウインドーも空っぽで店は閉ざされていました。 現地の人に聞いたところ、前年に思いもよらなかった市街戦が繰り広げられたのを機に、商店主等がヨーロッパなどに逃げてしまったのだということでした。 こういった裕福層が国外に退避していたことも、道が空いている原因の一つだったというわ

海辺でくつろぎながら、タイム・イズ・マネーを目の当たりにする

2002年に内戦の終戦を迎えたアンゴラは、その後高度成長期を迎えました。 交通インフラや高層ビルの建築ラッシュが始まると、道路は混雑を極め、1997年には車で5~6分だった距離を1時間以上掛けて移動するようなこともザラになりました。 2004年頃からつい3~4年前までは、ビル建設のタワークレーンが一機も 写っていないルアンダの町並みを写真に納めるのが困難だったほどです。 (今も建設ラッシュは続いていますが、出来上がったビルが増えた分タワークレーンだらけではなくなっています