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人生とは、ヘルニアのことだ。

ネタがない。何を書けばいいのかわからない。
つい1週間前、「週1くらいで書こうと思います」と宣言したにも関わらず、すでに崖っぷちに立っている(もしくは座っている)。
いくら熟練の技術を持った寿司職人でも、ネタがなければ酢飯をかき混ぜるだけの人になってしまう。
しかも僕は熟練の技術なんか持ってない。さらに言えば寿司職人でもない。

あまりにも困ったので、「書きたいこと ない」や「文章 書く方法」、「アーニャ 養子にしたい」などで検索してみた(困ったときにすぐググるのが自分の弱いところだ)。
すると、先人たちのアドバイスが出てくる。
だが言ってることは大体、「書きたいことを書くな」「役に立つ情報を提供すべし」「わかる(わかる)」といったことばかりだ。

確かに、周りを見渡せば「失敗しない洗濯機の選び方」だったり、「港区女子パパ活のリアル」、「会社に縛られず生きていく」などが多い。そういうものが求められているのはわかる(わかる)。

しかし、自分はハウツーを書けるほど何が得意なことがあるわけでもなく、読むだけで吐き気のするような現代社会の闇を知ってるわけでもないし、あたかも正解かのような持論を展開して賛同者を集めることもできない(そもそもそんな持論がない)。



ここまで書いて気づいたのだが、自分が書きたいのは役に立つことじゃない。
役に立たないことを全肯定するような、くだらないものを書きたい。



何かを必死で勉強してハウツーを書けば、読んでくれる人は増えるだろう。すぐに誰かの役に立つだろう。
しかし、それは自分にとっておもしろくない。それに、読んでもつまらない(洗濯機の説明書を愛読書にしないのと同じだ)。

本当におもしろいものは、失敗や変態的フェチやズレた視点や、しょーもない不幸話であって、「どの洗濯機のモーターが一番優れているか」という話ではないはずだ。

僕が書きたいのは意味のない話だ。なんの役にも立たない話だ。

馴染めない飲み会のすみっこで。帰りの電車を待つホームの上で。眠りに落ちる直前のベッドの中で。
そんなときにふと流し読みするようなものがいい。
次の日の朝には、読んだことすら忘れているかもしれない。でも、それでいい。

そして、ここまでの話は、タイトルとはなんの関係もない。



今年の1月、ヘルニアになった。厳密に言うと、腰椎椎間板ヘルニアになった。
あの痛みは初体験だった。腰で火山が噴火して、足先にマグマが流れていくようだった。
眠ろうとしても眠れず、前かがみになれないので顔を洗うのも一苦労だ。

ヘルニアになったことがない人のために言っておきたいのだが、僕は特に太ってるわけでもなければ、腰が捻り切れるほど遊び回ってるわけでもない。
家と会社の往復を繰り返す、痩せ型の30歳男だ。ついでにいうとイケメンではない。
つまり、誰にでもなる可能性はある。


(余談)そもそもヘルニアとはなんなのか。気になったのでちょっと調べてみた。

語源は〈脱出〉を意味するラテン語のherniaで、臓器もしくは組織が体内の裂け目を通って、本来の位置から脱出した状態をいう。 腹部の内臓が腹膜に包まれたまま腹腔外に脱出し,皮下に膨隆する外ヘルニアと,腹腔内の異常な裂孔に内臓が入りこむ内ヘルニアに大別される。

出典:コトバンク

つまりなんであれ、ある場所から飛び出してしまったものは全部ヘルニアということになる。僕の場合なら、腰の椎間板が飛び出した状態だ。
一般的に「ヘルニア」というと腰のイメージが強いが、首でもヘルニアになるし、出べそもヘルニアの一種である。
語源に従うなら、ブラック企業から脱出するのもヘルニアだし、モラハラなパートナーと別れるのもヘルニアだ。僕は早く独り身からヘルニアしたい。



自分がヘルニアになって初めて知ったのだが、ほとんどのヘルニアは時間が経つと自然消滅するという。「ヘルニア=即手術」というイメージだったので、これは意外だった。
一方で、根本的な治療もないという。そして、一度なってしまうと再発しやすい。

ということは、これからずっとヘルニアと過ごしていかないといけないということだ。
困ったものだ。まだ指輪のサイズも聞いてないのに(給料3ヶ月分で喜んでくれるだろうか)。

だが、希望もある。腰回りの筋肉を鍛えると、再発のリスクを抑えることができるという。
実際僕も、体幹を鍛えるという大地と交信するような筋トレを病院で教えてもらった。

そしてヘルニアの発覚から4ヶ月たった今、痛みは火山の噴火レベルからカセットコンロ並みの威力になった。夜は眠れるし、昼も眠れる。顔も苦労なく洗える。特技の欄に「洗顔」と書いてもいいくらいだ(ついでに「大地との交信」も書いておこう)。

しかし、再発の不安は残る。そしてやはり、この先ずっとヘルニアと付き合うというのは気が重いものだ(別れたくても別れられない夫婦を見るとなおさらよく分かる)。




でも、人生も同じではないだろうか。
家も学校も仕事も、自分で望んだものなんてほとんどない。誰もが「自分の望まなかったもの」と一生付き合っていく。その繰り返しだ。
自分で選んだものでさえ、後になって、望まないものに姿を変えてしまうかもしれない(そうでなければ離婚する夫婦も、会社を辞める人もいないはずだ)。

人生は思い通りにならない。思い通りにならない中で、日々を生き抜くことこそ人生だ。
まるでイカダに乗るように。波をかき分けるのではなく、波に漂いながら生きていく。
行く手を阻む波を恨むのではなく、波とともに生きる。波の一部となって。人生とはそういうものだ。
そのことをヘルニアは教えてくれたのではないか。
だとしたら、これも人生だ。

きっと人生最後の日、家族の見守るベッドの上で、ヘルニアとの日々を思い出すだろう。
思いもよらないことばかり起きる中で、生き抜いてきたことを誇りに思うだろう。
それと同時に、毎日欠かさずやってきた大地との交信(筋トレ)が、これからは必要なくなることに少しの寂しさも覚えると思う。





最後の通院の日に、病院でもらった言葉を皆さんに届けたい。

「この筋トレは、これから毎日ずっと続けてくださいね。」
「ずっとですか?」
「ずっとです。」



「死んだらやめてもいいですよ」とは言われなかったので、天国でも毎日続けるのかもしれない。


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