ようやく、ハッピーエンドが見えてきた

穴は埋めなくてもいいという話

カウンセリングを受け始めて「愛着障害です」と言われてから、ずーっと、本当に自分が愛着障害なのか、親に人を愛する能力がなかったのか疑問だった。
でも、親なんて、実際のところはどうでもよくて。親に愛されたのか愛されてなかったのかなんて、今更どうでもいいんだ。
現実として、自分が苦しんでたんだから。自分の症状がまさに、愛着障害なんだから。親がどうこうとか、考えても意味のないこと。
苦しい人生を送ってきた、それだけは間違いない。大変な人生を送って来たこと、それだけは間違いないんだから。

この30年、母性を求めて人生をウロウロしていた。
母性とはすなわち帰る場所で、ゆるぎなく受け止めてくれる場所。
親の代わりが欲しかった。というより、親が欲しかった。でも、母性は手に入らないと気づいた。
ずっと、守ってほしかったんだと思う。甘えたかったんだろうな。受け止めてほしかったんだろうな。かわいそうに。
いまだに、母性を求める気持ちはくすぶってる。でも、それでも良いと思う。
ずっと求めてきたんだから、急にやめるのは無理。徐々に自分の人生に戻っていけたらいいなと思っている。
まあ、手に入らないなら仕方ない。無いまま生きてきたから、これからも無いまま生きて行けるだろうし、あってもいきていける。どっちでもいい。

カウンセラーの先生は、これからも心に穴のある感覚は無くならないといっていた。でも、本当にそうなのかどうか、自分は確かめることはできない。
穴があるけど、誰かに埋めてもらおうとしなくてもいい。ずっと穴があることに耐えられなくて、穴を埋めたいと思ってたけど、どっちでもいいのかもしれない。
穴が埋まったらきっと嬉しいだろうけど、埋まらなくても、まあ、それはそ
れでいいのかなと思う。


そう思ったら、ちょっと楽になった。ふーーっと体が軽くなった。

心に穴が開いていて「何もない」から、何かで埋めないといけないと思ってたけど、埋まらないなら、埋まらないまま生きていけばいいのかな。
「何もない」ということを理解できない人もいるんだろうな。ある意味、ちょっとかわいそうだけど。
でも、理解できてしまうというのは、同時に悲しい話でもある。

この「何もない」ということが「ある」。それを表現するのは難しい。
でも、ドーナツを想像してもらえればいい。ドーナツは、穴があるからドーナツで、穴には何もないけれど、しかし「穴がある」。
だから、「どんな人?」って聞かれても、返答に困る。それは、自分についてよく知らない、自己理解ができてないからということじゃなくて、本当に「何もない」から。
もしも心が目に見えるなら、きっと納得してもらえるはずだ。

もしかしたら、今後の人生で穴が埋まるかもしれない。でも、もう無理して埋めようとも思わない。無理して埋めようとして、ずっとつらい思いをしてきたから。
だから、これからもいろんな事に困るだろうな。
「何もないんです」って言っても、理解してもらえないだろうから。

「何もない」から、イタコのようにいろんな人になってしまう。
だから、コピーが楽しめる。いろんな人になれるから。いろんな人になれるのが楽しいってのもある。
そうやって生きてきたから。笑
自分がないから、相手に合わせて変わってきた。そうやって生き抜いてきた。自分でも無意識のうちに。その生き方は、これからも変わらないだろう。
「本当の君が見えない」「どれが本当の君なんだ」って言われるかもしれないけど、どれも本当の自分だよ。
カメレオンのように。
演技してる、嘘ついてるっていわれたらそれまでだけど。でも、自分では演技してるつもりなくて。その場に合わせて行動してるだけで。
この文章の自分が、いちばんニュートラルに近いかな。勝手に色が変わっちゃうのはこれからも治らないだろうけど、今までみたいに過剰に色を変えようとする焦りはない。
捉え方によっては、「色が変わってしまう」というのが個性だったりするね。個性だろうが個性じゃなかろうが、どっちでもいいんだけどね。


人とのつながりの話

友達は好き。恋もする。
好きな人と一緒に居られたら、嬉しいし、安心するし、楽しい。ドキドキするし笑。
友達は大事にしたい。いろいろあるけど、いま付き合いがあるのは、いい人だけだ。こんな自分とも、仲良くしてくれるから。

でもそれは、穴を埋めることにはならない。

だから、友達にも、恋人にも、結婚しても、穴を埋めてもらおうとは思わない。それは相手に求めることじゃないし、求めたところで、相手も疲れてしまうだろうから。
だけど、「穴があるんだね」ってことをわかってくれたらうれしいかな。というか、そこをわかってもらえないと、多分うまくいかないと思う。笑(理解不能な出来事の繰り返しだろうから。笑)

そして、わかってもらうことが難しいから、こっちが仲良くなりたくても相手が離れていってしまうことはよくあること。
これって仕方ないと思うし、相手を引き止めることはできない。

自分は常識を学べなかったから笑、傍から見ると危ない行動をするだろうし、チャンスを見過ごしてしまうこともあるだろう。
日常生活の中でも、ときどきおかしなことをするだろう。
そういう時、そっと教えてくれる人がそばにいるといいな。友達でも恋人でも家族でも。
贅沢な望みだなと自分でも思うから、別にかなわなくても全然いいけど。

もし誰かと恋をして、付き合ったとしても、刺激溢れる毎日をあげることはできない。きっと傍から見たら退屈に見える、安定した穏やかな毎日になるだろう。そこは最初に謝っておくね。
でも、さみしい思いはさせないようにするね。それだけは約束する。
それが自分なりの愛かな。
次に恋をするなら、今までとは違う恋ができたらいいな。母性ではなくて、対等な。一方通行ではなくて、双方向の。

ま、もう一生恋愛も結婚もできないかもしれないけどね。したいけど、そこまでの熱はなくなってきた。
本当にわかってもらうことは、とっても難しいことだと気づいたから。

結婚してもいいし、しなくてもいい。って言いたいところだけど、やっぱりした方が楽しそうだな。今のところは。
子どもがいると楽しそうだなって思う。
夜に食卓を囲むのを楽しみにして、仕事を頑張る。そういう気持ちを感じてみたいなって思う。


感情の話

何かを見て面白いと思ったり、哀しいと思ったり、美しいと感じたり。喜んでもらうのが好きだったり、笑ってもらいたかったり、怒りが湧いてきたり。感情がないわけじゃない。
喜んでもらえるのは嬉しい。もちろん。

最近は、今まで抑えつけてきた感情が一気に噴き出して、全身を焼き尽くされるような感じだった。
でも、少なくともこれを書いている今は、全身が焼き尽くされるような感情は、どこかに消えてしまった。
感情はちゃんとある。でも、それに焼き尽くされることがない。飲み込まれることがない。
自分を支配するほどの感情じゃなくて、遠くで鳴っている打ち上げ花火のような、そんな距離感の感情。

子供の頃から、感情を抑えつけていた。感情を出すのが怖い家だった。自分の中身を知られてはいけないと怯えていた。
「そんなのが好きなの?」
「そんなの選ぶの?」
「そんなことで泣くなよ」
と常に責められている気分だった。

感情が吹き出してきたのは、実家を出てからだった。それで、段々と苦しくなって、今年の3月に一気にどうしようもなくなった。
実家にいたときは、泣いたことがなかった。喜んだことも、怒ったこともなかった。そういう家だった。
今は、悲しいものを見たらちゃんと泣く。あとは、人前で感情が出せるようになりたい。ちゃんと怒れるようになりたい。怒るべきときに。
感情は遠くに行っちゃったけどね。


ハッピーエンドが見えてきた

いろいろ書いてきたけど、まだまだ、「普通じゃない」というかなしみを、心の中に残している。普通に対する憧れが残っている。
さみしさを感じるときもあるし、周りを見て「いいな。わかりあえるのって」と羨ましくなるときもある。心がギュッとなるときもある。誰かに包まれたいときもある。
まあ、ずっとそうやって生きてきたんだから、いきなりその気持ちがなくなるってことはないよな。
無理に消す気もない。消えないかもしれないけど、それならそれでいい。
あきらめる自分も、あきらめきれない自分も、どっちも自分だから。

きっとまた、気分がどうにもならなくなる時が来る。どうしようもなく死にたくなる時が来る。
それでもまた、今日みたいな日が来る。そう思うと、気分が落ち込むのも今までよりは怖くない。
何度もこころが死んで、そのたびに生き返って、それを繰り返して楽になっていく。

相変わらず人は怖いけど、でも人が好きなんだなって思った。
いろんなものが怖いけど、怖いままでいいのかなって思う。
怖くならないかもしれないし、怖いままかもしれない。どっちでもいいと思う。

誰も読んでない、とは思わないけど、反応しづらいことを書いてる自覚はある。笑
読んだよってこっそり教えてもらえると、うれしい。「ひとりだな、っていうあきらめを感じてる」とは言いつつも、「そばにいてくれる人がいるんだな」っていうのがわかると、楽になるから。


そんなお話でした。また同じような話をするかもしれない。

ようやく、ハッピーエンドの姿がおぼろげに見えてきた。生まれて初めて。今まで苦労して、頑張って生きてきたご褒美かな。そう思ってもいいのかもね。
いつか、「こんなこともあったな」って、今日のことを思い返せる日が来るといいな。
でも、今日のことなんてすっかり忘れてしまえるのが、一番幸せだなと思う。



おなかすいたなって、思った。今日は何を食べようかなって思った。
今日の帰りは、外食して帰ろうかな。おいしいものが食べたいな。
ふふふ。って思う。夕ご飯って、楽しみにしてもいいものなんだね。



番外編①:死について

30歳で死ぬだろうなと、30歳よりは長生きしないだろうなと子供の頃から漠然と思ってきたけど、その予感はある意味当たっていて、これまでの自分は死んでしまった感じがする。
うまく言葉にはできないけど、これからも生きてもいいし、死んでもいい。明日突然死ぬとしても、あっさり受け入れてしまうだろうな。
それは悪い意味ではなくて、生きることも死ぬことも、どちらも並列に自分の目の前にあるから。

「じゃあお前は、病気になったとしても治療しないのか」と言われるとそういうわけではなくて。
例えば事件・事故、病気になったとしたら、必死で逃げるだろうし、病院でできる限りの医療を受けると思う。

それは、どんな理由も、死ぬ理由としては不十分すぎるから。

生も死も、並列に自分の目の前にあるのだけれど、いま生きてる自分が、死のカードを選ぶ理由がこの世にはない。理由として弱すぎる。選ばされる筋合いもない。
だから自分が死ぬのは、「もう死んでもいいかな」と自発的に思う時か、この世の仕組みではどうにもならない運命のようなものが訪れた時だけだと思う。

結果として、意外と長生きするだろう。ただ、死ぬときは、まるで生きているときと同じように死ぬだろうなと思う。
もうすぐ、31歳の誕生日がやってくる。


番外編②:この記事を書いた理由

【同じ境遇にいるあなたへ】
僕は自分が愛着障害だと気づくのに約30年かかった。
愛着障害は自分のせいじゃない。
完全に運(家庭環境)のせいだから、自分を責める必要もない。それに、必ず良くなる。
これだけは間違いない。愛着障害から回復した人たちがいることが、それを物語っている。それがわかるからカウンセリングを続けられる。
いろいろつらかっただろう。いまもつらいだろう。これからもつらいことが起きる。
生まれてきた運命を呪い、親を呪い、失った時間や人やモノやチャンスを思ってどん底に沈む時が来る。何度も何度も。
よく生きてきた。ずっとひとりで。

【読んでいるすべての人へ】
自分の悩んでる姿、苦しんでる姿を見て気分を悪くする人もいると思うし、「なんだコイツ」って思う人がいることもわかるけど。
でも、同じ境遇にいる人、そうでなくても一人で戦ってる人に力を与えられることがあるとも思ってる。綺麗事かもしれないね。
でも、誰も救えない事実より、誰かを救える綺麗事のほうが、俺は好きだな。
誰だって、綺麗事という神話を胸にしまって生きているから。
目に見える事実より、目に見えない綺麗事に救われるのが人間という生き物だと思ってるから。

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