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「努力」とは、別れました。(言葉を履き替えるということ)

日本人は努力が好きだ。
努力を美しいと感じる。努力をするほど偉い。
スポーツのドキュメンタリーでは、苦しい練習に耐え、努力する部分がクローズアップされる。
苦しむ人ほど偉い。努力は偉い。大変な思いをするほど偉い。
苦労しないで手に入れたものより、苦労して手に入れたもののほうが価値がある。

目的は努力によって達成されるものであり、その過程には苦しみがつきものだ。
目的が達成されなかったとしても、その過程の努力は人を裏切らない。


子どものころから、そう思ってきたのではないか?そう教えられてきたのではないか。今でも、そういう考え方が体に染みついている人は多いと思う。

僕も、そのひとりだ。そのことに疑問を呈したこともない。
苦しい思いをして、目的が達成できなかったとしても、それは自分にとっていいことだと思ってきた。

しかし、どこか息苦しさを感じていたのも事実だ。
人生に息苦しさを感じるのは自分の努力不足のせいで、努力して現状を変えればなんとかなると思っていた。
けれども、その「努力すること」自体に、言いようのない苦しみを感じていた。


「努力」とはなにか

そもそも、普段何気なく使っている「努力」とはどういう意味なのだろうか。
ここで一度確認しておきたい。

日本で最もポピュラーな国語辞典である広辞苑によると、

目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。

広辞苑(第7版)/岩波書店

とある。
なるほど、違和感はない。

念のため、他の辞典もあたってみる。

ある目的を達成するために、途中で休んだり怠けたりせず、もてる能力のすべてを傾けてすること。

新明解国語辞典(第7版)/三省堂

心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。

大辞林(第4版)/三省堂

力をこめて事をすること。あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。また、それに用いる力。

日本国語大辞典(第2版)/小学館


ここで、「ほねをおる」という言葉も出てきたので、意義を確認してみる。

物事をなしとげるために苦労する。苦労をいとわずに働く。骨折る。

広辞苑(第7版)/岩波書店

物事の成就に努力(苦労)する。

新明解国語辞典(第7版)/三省堂

①骨折する。②精を出して働く。③苦心して人の世話をする。

大辞林(第4版)/三省堂

労苦をいとわず、精を出して仕事に励む。面倒がらないで努力する。また、苦心して人の世話をする。

日本国語大辞典(第2版)/小学館


今更だが、せっかくなので「苦労」の意義も確認してみたい。

①苦しみつかれること。②骨を折ること。心配。労苦。「若いころから―する」③(「御―」の形で)人に世話をかけること。また、他人の骨折りをねぎらっていう語。浄瑠璃、夕霧阿波鳴渡「旦那様小さい時より御―に預り、御恩も報ぜず」。「御―さま」

広辞苑(第7版)/岩波書店

困難な条件下で何かをやろうとして肉体的(精神的)に多くの労力を費やすこと。

新明解国語辞典(第7版)/三省堂

物事がうまくいくように、精神的・肉体的に励むこと。逆境にあって、つらいめにあいながら努力すること。また、あれこれと苦しい思いをすること。労苦。

大辞林(第4版)/三省堂

肉体や精神を使って、疲れたり、苦しい思いをしたりすること。また、そのさま。

日本国語大辞典(第2版)/小学館


辞典ごとに若干の解釈の揺れはあるが、「努力」の意義は
「あることを達成するために、休まず怠けず、苦しい思いをしながら自分の能力を傾けること。」
と読み取っていいだろう。
普段意識しないだろうが、この解釈に違和感を感じる人は少ないと思う。
そして、これが日本で広く一般的に使われている解釈であると考える。

ところで、なんだか不穏な雰囲気が漂っていないだろうか。ある種の不気味さを感じるのは僕だけだろうか。


effortとの比較

一方で、一般的に努力の英訳として使われるeffortという言葉を見てみる。
(カッコ内の日本語訳は僕によるもの)

physical or mental activity needed to achieve something:
(あることをを達成させるために必要な、肉体的または精神的活動。)

Cambridge Dictionary



これだけである。どこにも「苦労」「労苦をいとわず」「休まず怠けず」などの意味は入ってない。

これだけでは判断しきれないので、他の辞典もあたってみる。

①an attempt to do something especially when it is difficult to do
(特に、困難な事柄に対して試みること。)
②the physical or mental energy that you need to do something; something that takes a lot of energy
(多くの力を必要とするものに向けられる、肉体的・精神的な力。)

Oxford Leaner's Dictionaries


①the physical or mental energy that is needed to do something
(あることに対して求められる肉体的・精神的な力。)
②an attempt to do something, especially when this involves a lot of hard work or determination
(特に、多大な力や決意を必要とする事柄に対して試みること。)

Longman Dictionary of Contemporary English Online

ここまで見てきた「effort」の意義をまとめると、
「ある目的(特に、困難な事柄)を達成するために、精神的・肉体的な力を注ぐこと。」
であると解釈していいだろう。
「努力」という言葉から漂っていた苦しみのにおいは、ここからはほとんど感じられない。

つまり、厳密に言えば、「努力」と「effort」では、意味が異なるのである。


(完全な余談)
ここまで書いていて、サッカーの実況を思い出した。
イギリスのサッカー実況を聞いていると、シュートの場面で「effort」がよく出てくる。(That was a good effort.とか言ってるのをよく聞く。)
これはまさに「努力」と「effort」の違いを表しているのではないか。
得点を決めるための肉体の活動=シュートを「effort」と表現するのは、まさに、という感じがする。日本人がシュートのことを「努力」とか言い出したらおかしい。

ゴールに向けてシュートする瞬間=得点を決めるためにボールをゴールに向けて蹴る、という瞬間にフォーカスしている。苦しんでいようが楽しんでいようが関係ないのである。
(余談終わり)



なぜ、「努力」は苦しみを纏っているのか

こうやって比較すると、「努力」という言葉に違和感を覚える。
どうして目的達成という「事実(客観)」を得るために、力を注ぐことだけでなく、苦しむという「感情(主観)」まで指定されないといけないのか。苦しもうが楽しもうが、目的達成のために自分の力を注げれば、それでいいのではないのか。


ここで、努力に使われている「努」という漢字に注目してみたい。
「努」の成り立ちに、手がかりがありそうだ。

形声。力+奴。音符の奴は、力をつくして働かされる奴隷の意味。力を付し、つとめるの意味を表す。

新版 漢語林(第2版)/大修館書店

「右手の象形と両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形」(「捕らえられた女奴隷」の意味)と「力強い腕」の象形から力を尽くして働く奴隷を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「つとめる(力をつくす)」を意味する「努」という漢字が成り立ちました。

OK辞典


つまり、「努力」の「努」とは、もとを正せば奴隷のことだったのだ。

さらに、「努力」の語誌についてもここで触れておきたい。

奈良時代や平安時代初期の文献にすでに見えるが、院政期や中世の古辞書類に登載されていないところから、近世まではあまり一般的ではなかったと思われる。広く用いられるようになるのは明治以降で、挙例の「哲学辞彙(※)」でeffortの訳語として採用された。
(※哲学用語集。井上哲次郎ら編。明治14年(1881)初版刊。イギリスのウィリアム=フレミングの「哲学辞典」をもとに、明治初期の哲学用語を集大成したもので、現在でも用いられている語が多数見られる。)

日本国語大辞典(第2版)/小学館

↑哲学字彙の原著は上記リンクから見れる。

いったい何を思って「effort」の訳語に「努」という漢字を採用したのか、それは僕にはわからない。
しかし、「努」が持っていた奴隷の香り、奴隷の苦しみが、奴隷のいなくなった時代になっても消えないまま残って、「努力」という言葉に引き継がれ、苦しみを纏うことになったのではないだろうか。と、僕は考える。


言葉による主観のコントロール

ここまでは、「努力」という言葉が纏っている苦しみのにおいについて考えてきた。

しかし本当の問題は、「努力」が苦しみのにおいを持っていることではなく、
「言葉によって、気づかぬうちに、主観をコントロールされている」
ことではないだろうか。


人は言葉で思考する以上、言葉の支配から抜け出すことはできない。
つまり、主観を指定してくる言葉を使えば、知らぬ間に主観をコントロールされることになる。

言葉というのは、恐ろしいものだ。
「努力」という言葉に「苦しみ」という意味を込めてしまえば、あとは人々が勝手に苦しむ。無意識に刷り込まれる。
そのうえ、「努力は素晴らしい」という価値観を社会に植え付けてしまえば、人々は苦しむことを求め、苦しめなかった人は「苦しまない自分は、だめな人間なのかもしれない」と、自分を責めて苦しむ。
そして、苦しみの渦の中へと自ら飛び込んでいく。

仮に、「努力」の意義が「あることを達成するために、休んで怠けて、楽しい思いをしながら自分の能力を傾けること。」であったとしても、「楽しい」という主観を指定してくるので、主観をコントロールされるという目線では、同じことである。
(つまり、人々は勝手に楽しみ(楽しまなければならないという無意識的な強迫観念)、楽しめなかった人は「楽しめない自分は、だめな人間なのかもしれない」という苦しみに入っていく。どちらにせよ、主観をコントロールされている。)


言葉を履き替えるということ

言葉の支配から抜け出せない人間が、主観をコントロールされない自由を得るにはどうしたらいいか。

その解決策のひとつとして、
「今までの言葉を捨て、新しい言葉に履き替えること」が有効だと思う。
すなわち、自分を大事にしてくれない言葉とは別れ、他の言葉と付き合うこと。
そして、どの言葉と付き合うかどうかは、決められる。

合わない言葉と生きるというのは、合わない靴でフルマラソンに出ることに似ている。
痛いし、走りにくい。
普通のマラソンなら、靴を履き替えるだろう。

しかし、言葉になると「替えよう」とは誰も思わない。それが当たり前になっているから。
それどころか、うまく走れない自分のことを責めてしまう。


そして僕は、「努力」という言葉と別れることにした。
今まで自分を苦しめていたものが、この言葉だったと気づいてしまったから。


気づいたら、解放された

「努力」と「effort」の違いを通じて、言葉を履き替えられるということに気づいたとき、雷雲の隙間から太陽が差し込んだような感覚を覚えた(まさに、ヘッダー画像のように)。憑き物が落ちたように、何かが消えた。締め付けていたものがなくなった。ものすごい解放感だった。
そうか!と思った。知らず知らずのうちに、苦しんでいたんだ。もう、苦しまなくてもいいんだ。苦しまなくてもいい道を探してもいいんだ。
苦労しないで目的地にたどり着いても、罪悪感を感じなくていいんだ。
ずっと、努力が苦手な自分を責めていたが、もう責めなくてもいいんだ。

「努力」は苦しむことを求めるが、苦しまず、休んだり怠けたりしても「effort」は認められる。前に進もうが後ろに進もうが止まろうがジャンプしようが、目標に向かって何かを動かそうとしたことは全て「effort」となる。

「努力不足だった」と自分を傷つけることはなくなるだろう。失敗しようがどうしようが、effortしたという事実は生まれる。
それに苦しみが減るから、「あんなに苦しんだのに…」と失望することも減る。
「苦しまずに手に入れたものに価値はない」と思うこともなくなるだろう。
「こんなの努力したうちに入らない」と自分を過小評価することもなくなるだろう。
「あいつは努力してないのに、ずるい」と、周りを責めることもなくなるだろう。
(不思議なことに、自分を責めなくなったら、他人を責めなくなった。)

「結果のためには、絶対に苦しまないといけない」という価値観から解放されるだけで、ずいぶんと息をしやすくなる。生きやすくなる。


よく、「何かを成し遂げた人は、努力を努力と思わない」と言われるが、それはある意味当たっている。なぜなら、日本語にはeffortにあたる言葉がないからだ。その人たちは努力はしてこなかったかもしれないが、effortはしてきたのだと思う。


どの言葉と生きていくか(信じるか)

今回は「努力」を槍玉にあげたが、努力自体を否定するわけじゃない。
どんな言葉を選んでも正解だ。それに、どの言葉が優れているかなんて話はできないし、意味がない。

それに、努力をやめなさいというつもりはない。努力していいと思う。それは個人の選択だ。この場合は「努力」と「effort」のどちらが自分に合うか、どちらが好きかという話だ。そこに優劣の差はない。

そして、苦しむことも否定しない。苦しみが人生に陰影を与え、奥行きを持たせてくれるのも事実だ。
しかし、目的達成のプロセスにまで、苦しみを必ず持ち込まなければいけないとは思わない。


今回本当に言いたかったのは、知らず知らずのうちに、自分に合わない言葉に染まっていないか。また、誰かを染めていないかということ。
そして、自分に合わない言葉を捨てて、合う言葉を選ぶことができるってことだ。

今回は僕が日本語と英語しかできない(英語も大してできないが)から「effort」という単語を持ち出したが、もしかしたら他の国の言葉に、自分を救う言葉があるかもしれない。

詭弁だと思うかもしれない。神話のようなものだと感じる人もいるかもしれない。たしかに、そう言われたら否定できない。
だが、人間なんて所詮、神話の中でしか生きられない。
結局のところ、「どの神話を信じるか」という話だと思う。

今日も、昨日と同じような人生が続いているし、見た目には何も変わっていない。人生の課題だって、何も解決していない。
しかし、信じる神話が変わると、明らかに何かが変わる。明らかに生きやすくなる。

これを読んでいるあなたも、自分を取り巻いている言葉について、ぜひ考えてみてほしい。









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