「努力」とは、別れました。(言葉を履き替えるということ)
日本人は努力が好きだ。
努力を美しいと感じる。努力をするほど偉い。
スポーツのドキュメンタリーでは、苦しい練習に耐え、努力する部分がクローズアップされる。
苦しむ人ほど偉い。努力は偉い。大変な思いをするほど偉い。
苦労しないで手に入れたものより、苦労して手に入れたもののほうが価値がある。
目的は努力によって達成されるものであり、その過程には苦しみがつきものだ。
目的が達成されなかったとしても、その過程の努力は人を裏切らない。
子どものころから、そう思ってきたのではないか?そう教えられてきたのではないか。今でも、そういう考え方が体に染みついている人は多いと思う。
僕も、そのひとりだ。そのことに疑問を呈したこともない。
苦しい思いをして、目的が達成できなかったとしても、それは自分にとっていいことだと思ってきた。
しかし、どこか息苦しさを感じていたのも事実だ。
人生に息苦しさを感じるのは自分の努力不足のせいで、努力して現状を変えればなんとかなると思っていた。
けれども、その「努力すること」自体に、言いようのない苦しみを感じていた。
「努力」とはなにか
そもそも、普段何気なく使っている「努力」とはどういう意味なのだろうか。
ここで一度確認しておきたい。
日本で最もポピュラーな国語辞典である広辞苑によると、
とある。
なるほど、違和感はない。
念のため、他の辞典もあたってみる。
ここで、「ほねをおる」という言葉も出てきたので、意義を確認してみる。
今更だが、せっかくなので「苦労」の意義も確認してみたい。
辞典ごとに若干の解釈の揺れはあるが、「努力」の意義は
「あることを達成するために、休まず怠けず、苦しい思いをしながら自分の能力を傾けること。」
と読み取っていいだろう。
普段意識しないだろうが、この解釈に違和感を感じる人は少ないと思う。
そして、これが日本で広く一般的に使われている解釈であると考える。
ところで、なんだか不穏な雰囲気が漂っていないだろうか。ある種の不気味さを感じるのは僕だけだろうか。
effortとの比較
一方で、一般的に努力の英訳として使われるeffortという言葉を見てみる。
(カッコ内の日本語訳は僕によるもの)
これだけである。どこにも「苦労」「労苦をいとわず」「休まず怠けず」などの意味は入ってない。
これだけでは判断しきれないので、他の辞典もあたってみる。
ここまで見てきた「effort」の意義をまとめると、
「ある目的(特に、困難な事柄)を達成するために、精神的・肉体的な力を注ぐこと。」
であると解釈していいだろう。
「努力」という言葉から漂っていた苦しみのにおいは、ここからはほとんど感じられない。
つまり、厳密に言えば、「努力」と「effort」では、意味が異なるのである。
(完全な余談)
ここまで書いていて、サッカーの実況を思い出した。
イギリスのサッカー実況を聞いていると、シュートの場面で「effort」がよく出てくる。(That was a good effort.とか言ってるのをよく聞く。)
これはまさに「努力」と「effort」の違いを表しているのではないか。
得点を決めるための肉体の活動=シュートを「effort」と表現するのは、まさに、という感じがする。日本人がシュートのことを「努力」とか言い出したらおかしい。
ゴールに向けてシュートする瞬間=得点を決めるためにボールをゴールに向けて蹴る、という瞬間にフォーカスしている。苦しんでいようが楽しんでいようが関係ないのである。
(余談終わり)
なぜ、「努力」は苦しみを纏っているのか
こうやって比較すると、「努力」という言葉に違和感を覚える。
どうして目的達成という「事実(客観)」を得るために、力を注ぐことだけでなく、苦しむという「感情(主観)」まで指定されないといけないのか。苦しもうが楽しもうが、目的達成のために自分の力を注げれば、それでいいのではないのか。
ここで、努力に使われている「努」という漢字に注目してみたい。
「努」の成り立ちに、手がかりがありそうだ。
つまり、「努力」の「努」とは、もとを正せば奴隷のことだったのだ。
さらに、「努力」の語誌についてもここで触れておきたい。
↑哲学字彙の原著は上記リンクから見れる。
いったい何を思って「effort」の訳語に「努」という漢字を採用したのか、それは僕にはわからない。
しかし、「努」が持っていた奴隷の香り、奴隷の苦しみが、奴隷のいなくなった時代になっても消えないまま残って、「努力」という言葉に引き継がれ、苦しみを纏うことになったのではないだろうか。と、僕は考える。
言葉による主観のコントロール
ここまでは、「努力」という言葉が纏っている苦しみのにおいについて考えてきた。
しかし本当の問題は、「努力」が苦しみのにおいを持っていることではなく、
「言葉によって、気づかぬうちに、主観をコントロールされている」
ことではないだろうか。
人は言葉で思考する以上、言葉の支配から抜け出すことはできない。
つまり、主観を指定してくる言葉を使えば、知らぬ間に主観をコントロールされることになる。
言葉というのは、恐ろしいものだ。
「努力」という言葉に「苦しみ」という意味を込めてしまえば、あとは人々が勝手に苦しむ。無意識に刷り込まれる。
そのうえ、「努力は素晴らしい」という価値観を社会に植え付けてしまえば、人々は苦しむことを求め、苦しめなかった人は「苦しまない自分は、だめな人間なのかもしれない」と、自分を責めて苦しむ。
そして、苦しみの渦の中へと自ら飛び込んでいく。
仮に、「努力」の意義が「あることを達成するために、休んで怠けて、楽しい思いをしながら自分の能力を傾けること。」であったとしても、「楽しい」という主観を指定してくるので、主観をコントロールされるという目線では、同じことである。
(つまり、人々は勝手に楽しみ(楽しまなければならないという無意識的な強迫観念)、楽しめなかった人は「楽しめない自分は、だめな人間なのかもしれない」という苦しみに入っていく。どちらにせよ、主観をコントロールされている。)
言葉を履き替えるということ
言葉の支配から抜け出せない人間が、主観をコントロールされない自由を得るにはどうしたらいいか。
その解決策のひとつとして、
「今までの言葉を捨て、新しい言葉に履き替えること」が有効だと思う。
すなわち、自分を大事にしてくれない言葉とは別れ、他の言葉と付き合うこと。
そして、どの言葉と付き合うかどうかは、決められる。
合わない言葉と生きるというのは、合わない靴でフルマラソンに出ることに似ている。
痛いし、走りにくい。
普通のマラソンなら、靴を履き替えるだろう。
しかし、言葉になると「替えよう」とは誰も思わない。それが当たり前になっているから。
それどころか、うまく走れない自分のことを責めてしまう。
そして僕は、「努力」という言葉と別れることにした。
今まで自分を苦しめていたものが、この言葉だったと気づいてしまったから。
気づいたら、解放された
「努力」と「effort」の違いを通じて、言葉を履き替えられるということに気づいたとき、雷雲の隙間から太陽が差し込んだような感覚を覚えた(まさに、ヘッダー画像のように)。憑き物が落ちたように、何かが消えた。締め付けていたものがなくなった。ものすごい解放感だった。
そうか!と思った。知らず知らずのうちに、苦しんでいたんだ。もう、苦しまなくてもいいんだ。苦しまなくてもいい道を探してもいいんだ。
苦労しないで目的地にたどり着いても、罪悪感を感じなくていいんだ。
ずっと、努力が苦手な自分を責めていたが、もう責めなくてもいいんだ。
「努力」は苦しむことを求めるが、苦しまず、休んだり怠けたりしても「effort」は認められる。前に進もうが後ろに進もうが止まろうがジャンプしようが、目標に向かって何かを動かそうとしたことは全て「effort」となる。
「努力不足だった」と自分を傷つけることはなくなるだろう。失敗しようがどうしようが、effortしたという事実は生まれる。
それに苦しみが減るから、「あんなに苦しんだのに…」と失望することも減る。
「苦しまずに手に入れたものに価値はない」と思うこともなくなるだろう。
「こんなの努力したうちに入らない」と自分を過小評価することもなくなるだろう。
「あいつは努力してないのに、ずるい」と、周りを責めることもなくなるだろう。
(不思議なことに、自分を責めなくなったら、他人を責めなくなった。)
「結果のためには、絶対に苦しまないといけない」という価値観から解放されるだけで、ずいぶんと息をしやすくなる。生きやすくなる。
よく、「何かを成し遂げた人は、努力を努力と思わない」と言われるが、それはある意味当たっている。なぜなら、日本語にはeffortにあたる言葉がないからだ。その人たちは努力はしてこなかったかもしれないが、effortはしてきたのだと思う。
どの言葉と生きていくか(信じるか)
今回は「努力」を槍玉にあげたが、努力自体を否定するわけじゃない。
どんな言葉を選んでも正解だ。それに、どの言葉が優れているかなんて話はできないし、意味がない。
それに、努力をやめなさいというつもりはない。努力していいと思う。それは個人の選択だ。この場合は「努力」と「effort」のどちらが自分に合うか、どちらが好きかという話だ。そこに優劣の差はない。
そして、苦しむことも否定しない。苦しみが人生に陰影を与え、奥行きを持たせてくれるのも事実だ。
しかし、目的達成のプロセスにまで、苦しみを必ず持ち込まなければいけないとは思わない。
今回本当に言いたかったのは、知らず知らずのうちに、自分に合わない言葉に染まっていないか。また、誰かを染めていないかということ。
そして、自分に合わない言葉を捨てて、合う言葉を選ぶことができるってことだ。
今回は僕が日本語と英語しかできない(英語も大してできないが)から「effort」という単語を持ち出したが、もしかしたら他の国の言葉に、自分を救う言葉があるかもしれない。
詭弁だと思うかもしれない。神話のようなものだと感じる人もいるかもしれない。たしかに、そう言われたら否定できない。
だが、人間なんて所詮、神話の中でしか生きられない。
結局のところ、「どの神話を信じるか」という話だと思う。
今日も、昨日と同じような人生が続いているし、見た目には何も変わっていない。人生の課題だって、何も解決していない。
しかし、信じる神話が変わると、明らかに何かが変わる。明らかに生きやすくなる。
これを読んでいるあなたも、自分を取り巻いている言葉について、ぜひ考えてみてほしい。
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