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明日からの旅路

ピアノの調べと同じ。
ひとつずつ音符が進んで
一曲が奏でられる。
喜怒哀楽のメロディが。
彼の、いや僕らの
人生の旅路のように。

彼は、器用な男ではなかった。
40年前、社会人になって
営業職などにも就いたが
どちらかというと内部の事務や
トラブルの処理のほうが得意だった。
大抵の会社は営業が花形だから、
彼は同期より昇進昇格が遅れた。
それでもめげたり腐ることなく、
コツコツと与えられた仕事をこなした。

10年前、彼は50歳を超えた頃、
クレーム処理専門部署に異動になった。
着任当時、彼は電話応対のぶっきらぼうさ、
言葉の配慮不足、
部署連携の不行き届きが続いて、
上司に何度も注意を受けた。
彼は器用な人材ではなかったのだ。

幾度となく繰り返した失敗に
そのたび、自信を失いかけた。
でも彼はコツコツ仕事をこなした。
50歳を超えての自分の居場所を
大切にしたのだ。
だからまだ成長志向を失わなかった。
流れ込んでくる案件をひとつずつ
丁寧に集中してこなした。

その後5年が経過した頃、
彼はその業務のエキスパートとして
一目置かれる存在になっていた。
若手社員からは羨望の眼差しを受け、
上司からも余人に変え難しと讃えられた。

彼はこうしてその道のプロ、
孤高の領域にたどり着いたのだ。
そして彼は知ったのだ。
自分の仕事の、真の意味と、
超えられない困難はないことを。

でも彼が着任当時、
上司から何度も叱られ、
幾多もの注意を受けてきたことを
知る人は殆どいない。
何故なら、彼の部署には
彼ほどの古参、古株はいないから。
周囲の人たちは
人事異動で既に他の部署へ、
あるいは定年退職しているからだ。

今彼と一緒に仕事をしている面々は
彼を達人で天才、
スーパースターだと思っている。

でも、僕は知っている。
彼が努力の人であることを。
自分の持ち味や特性を知り、
それを信じ続け、
幾多もの困難からも逃げず、
もがきながら、ときにひるみながら
何とか乗り越え、時を刻み、
今に至っていることを。

そんなふうに40年間、
時間をコツコツ紡いできたことを。
ピアノのメロディが
1音ごと進んで、流れて、
メロディを紡ぎ、楽曲が成り立つように。

そんな彼が先月末、
定年退職で会社を去った。

僕らの耳に、彼の奏でた残響。
僕らは明日からも、
彼を引き継ぐように、
一日ごと一瞬ごと時を重ねていく。

ピアノの調べに背を押され
一歩ずつ行くのだ。
このThe long and winding roadを。

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