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わからないものへの不安とその対処(祟りのシステムの利用)(後編)

 祟りのシステムの論文が途中までしか紹介できていないので、今日は後半を紹介します。前回の記事はこちらになります。

論文タイトルと著者は「古代日本の「祟りのシステム」」(米井輝圭)です。

後半部の要約

 祟りの原因は過去のちょっとした不祥事に求められる(穢れを持つ人が神事に参加したとか、先の記事だと神社の木をつかってお寺の塔を作ったとか)。祟りのシステムが存続しえたのもこの点によるところが大きい。ちょっとした過去の不祥事は必ず存在する。そのため、祟りの原因を挙げることができないということはない。さらにそのような不祥事を挙げるために特殊な能力は必要でなく、神祇官や陰陽寮に属する役人(官職カリスマ)にも可能であった。そのため、祟りのシステムは存続しえた。

 さらに、語られる災異は多くは自然現象であり、短期間に何回も繰り返し発生するものではなかった。そのため、祟りに対する対処をすることで災異が治まるという実績が積み上げることができ、結果、祟りのシステムへの信頼が高まった。もし祟りへの対処を行ったにもかかわらず、再び災異が起こった場合でも、対処自体が誤っていたとして改めて正しい対処が行われた。そのため、祟りの対処の失敗がシステムの信頼性を揺るがすことは無かった。しかし、病気に関する災異については、祟りの対処を行っても病気が治るということはなく、祟りのシステムはあまり有効ではなかった。そのため、病気には他の方策をとったようだ。

 祟りのシステムは災異の原因を特定する。ここでいう「原因」は二分することができる。一つには、神霊の祟りを原因として災異がおこるということであり、災異の「発動原因」にあたる。二番目は、さらにその発動原因を呼ぶ原因となったところの、人間による神霊への過失・侵犯であり、「根本原因」と呼ぶべきものである。「発動原因」と「根本原因」の両方を特定することで祟りに対処しうるので、「根本原因」まで特定された。

感想

 さすがに今の時代に「祟り」が原因で災害が起こったとの主張は無理がああるのではないでしょうか。しかし、災害に対し何かしらの意味を求めてしまう心情は現代人においても未だ残っているようです。
 東日本大震災では、石原都知事が「天罰」であると発言し話題になりました。「天罰」と捉える論は古くから存在するもので、天譴論といいます。広い意味でとらえればこれは「祟り」に入るかな…。またコロナについては、中国の某機関が作ったウイルスであるという陰謀論が囁かれています(真偽のほどは不明)。これについては政治的な意図もあるのでしょうが。
 人間は因果関係が大好きな生き物なのでしょうね。何事も説明付けたいという願望がこれらの主張をもたらしているように思います。神のいる世界では神というブラックボックスで全て説明付けられたのでしょうが、神の死んだ現代においては災害はどのように説明付けてられていくのでしょうか。科学は災害のメカニズムを説明してくれますが、その「意味」を答えてはくれませんし、完全な対処法も答えてくれません。科学の立場から言えば「意味」などないと答えざるを得ませんが、人間は意味のなさを受け入れられるほど強くないのではないでしょうか。

 とポエム的なことを書いて今日は締めたいと思います。「思います」って言葉使うのバカっぽくてあんまり好きじゃないので、なにかいい言い換え表現あったら教えてください。

石原都知事の発言(2011/3/14)http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103140356.html

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