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わからないものへの不安とその対処(祟りのシステムの利用)(前編)

 ぼちぼち卒論を書き始めなければならないと、空き時間にワンピースを読んだりプロレスを見たり論文を流し読みしたりする今日この頃です。ワンピースで学ぶ人種差別というテーマで記事かけそうな気がするので、気が向いたら考えてみようと思います。
 災害の宗教的な解釈をテーマにした卒論にする予定なので、今日は「祟り」についての論文を読みました。論文タイトルと著者は「古代日本の「祟りのシステム」」(米井輝圭)です。(まだ前半しか読んでないのですが…)

 科学技術の発展していなかった時代では、地震、津波などの災害がなぜ起こるのかわからなかったことでしょう。そんな時代に生きる人々はただ災害に怯えながら暮らすことしかできなかったのでしょうか。そこで考え出されたのが「祟り」です。
 「祟り」とは、科学的・合理的な方法をもってしては決して結びつけることのできないような2つの事実を、一つの因果関係で関連付けたいときに使用されます。当時は災害という全く未知のものを、祟りという構図を使って、既知なものと結びつけ対処しました。具体的な例を見てみましょう。
 「寺の塔に落雷があった際、卜(亀の甲を使った占い?)を行ったところ、神社に植えられた木を使って神社とは異質の存在である寺の塔を建てたことに神社の神の祟りを招いた、と結果がでた。そのために朝廷は神に謝意を表すなどしかるべき処置をおこなった。」
 このように、災異が出現した際には、
災異の出現→卜または占→祟る存在とそれが祟りとなる原因となった事実の特定→適切な対処→(災異の消滅)
 のプロセスがとられます。これを筆者は「祟りのシステム」と命名しました。
 「祟りのシステム」を経ることで、原因を知ることで災異は未知なものではなくなり、人々を安心に導きます。さらに、解決策が明確になることで災異を人間の行為によりコントロールできる余地が生まれ、さらなる安心をもたらします。以上により祟りのシステムは、心理安定・平生状態回復装置の役割を果たします。(前半要約終)

 現代人は、「祟り」として災異を解釈するのはバカバカしいと考えるかもしれません。しかし、「祟り」であると災異を解釈することで安心が得られるとするならば、当時の時代を生きた人のほうが現代人よりも幸せかもしれませんね。現代人は災異の発生メカニズムはほぼ理解してはいますが、その解決策となるとあまり持ち合わせていないように思います。そのため、災異はいまだ対処不可能なものであり、不安が募っていくことでしょう。
 では現代人はいかにして不安を払拭すべきでしょうか。地震について考えてみましょう。地震はいずれ必ず起きるものであり、なおかつ地震は正確な予知が不可能であるという現状があります。「祟りのシステム」により不安を払拭できない我々は不幸せなのでしょうか。「祟りのシステム」により得られる対処法は科学的にみればなんの対処にもなっておらず、ただ精神を救うに過ぎないものです。我々には「祟りのシステム」は持ち合わせてはいませんが、災害が必ず起きることを知っており、また災害が起きた際にどの様に行動すればよいのか知ることができます。当たり前の結論になってしまいますが、我々は地震に備えることで、地震がいつ起きても動じない精神をつくるべきでしょう。

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