見出し画像

生と死と踊りについて

生と死について半世紀近く考えた結果

生と死について考え始めたのは忘れもしない小学3年のとき。母と喧嘩して腹いせに大岡荘八の「徳川家康」と漫画の「はだしのゲン」を読んだのがきっかけでした。

最初はショック。それから自分の意識が無くなることの恐怖。悲しみ。拒否する気持ち。
そして生きることの奇跡や無意味さやなぜ生きているのか、死んだらどうなるのかという自問自答が一年近く続きました。

結局のところ、考え疲れてこの時間勿体ないなって思ったんです。だって生きてるし。答えないし。悩んで人生終わるんじゃ勿体ない。ただ、明日死んでも後悔しないで毎日生きようと思ったのでした。

今でも解決した訳でもなく時折グワンと哀しみが襲ってきますが、半分くらいは愛しさに変化しています。死がなければ、ドラマも愛も劇的にならないと思うし、もっと理論的に言えば、始まりと終わりはあるのが自然な姿です。

自分という人間はその人にとっては特別な存在で尊重すべきものです。生物としては皆等しく細胞分裂組織の論理に則る存在なのですね。

去年の父の死でますます生死は当たり前になりました。と同時に生への惜しい気持ち、狂おしい欲も減少しています。

明日死んでも後悔しないようにと気負っていましたが、それって裏返しだったのです。思い切ったことをする原動力にはなっていましたが、そこまで死を嫌われなくていいんじゃないか、もっとどちらも受け入れていけばいいかと思い始めています。

踊りについて

踊りについてはただひたすら好きだった子どもの頃。身体表現にさまざまなものがあり、自分は何をしているのか、何をしたいのか考え始めたのは二十代で教え始めたころでしょうか。

現代舞踊の系列だと自覚し、舞踊史、日本の舞踊史を調べて学び、クラシックバレエ、モダンダンスの基本を学び、舞踊家たちの思想を知る中でじゃあ、自分は何をやっていきたいのかと思考始めたのです。

この6年はこの問いと常に向き合って、長年培われた自分の常識を打ち破ってきました。

まず最初はクラシックと現代舞踊の違いも母が知らずに教室に入れたことから始まります。

気づいたのはだいぶ遅くて中学ぐらいでしょうか?それから現代舞踊とモダンダンスの違いやら、コンテンポラリーダンスやらを知ったわけですが、目指しているのはどれでもなく、それらのもので培われた体を使った身体表現がしたいのだと今は感じています。

その身体表現で何をしたいのかと言えば、関わり合いたいんです。共演者、観る人、場所、時間、空間全体。そういうものと感じ合いたい。それだけ。

それだけなんですね。今更ながらそうかと気づいたところです。

3月20日に公演出演があります。
音楽家の企画で、演劇の人が演出。
ですが、そこに添わないのが皆んなの総意です。

自由意志で反応してほしい。
これって実は難しいです。トコトン己に向き合う必要があります。

ダンサー二人、演劇人、音楽家二人
これに参加できるなんて贅沢なことです。

3月31日にイベントでセッションに参加します。
ダンサー4人。音楽家3人。
これも楽しみであり、背筋の伸びる心地もします。

私の中の美意識でここまで誘われて来ました。
無我、予定調和のない偶然の必然、
無邪気、真剣な遊び、
人を無条件に信じること、愛すること、
無分別、矛盾を愛すること

凛とした空気、背筋の通った身体を作りつつ、
美意識を磨いていけたらと思っています。

半世紀も生きたんだから、次のフェーズに入っていきたいですね。
もう自分の見目形を気にしなくていい歳ですから、思う存分表現に集中していきます。


いつも応援ありがとうございます。サポートしていただいたお礼はアートプロジェクト事業費として創造空間の作成やアーティスト活動、仲間への感謝の気持ちの一部とさせていただきます✨