ヨルシカの『テレパス』について

2023年3月6日追記: 読みづらい部分を校正しました。
2023年8月27日追記: 冗長な部分を校正しました。

ヨルシカの新曲『テレパス』は、『爽やか絶望系』の曲だ。
『爽やか絶望系』というのは、乏しいながら例を挙げるなら宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、サンテグジュペリの『夜間飛行』、ヘミングウェイの『老人と海』などの、絶望的なテーマを、爽やかで心地よい雰囲気の中で表現した作品である。テーマと裏腹な後味の良さが特徴的だ。

そう、この曲はどうしようもなく絶望的なのだ。

この曲の中には、二人の登場人物がいる。比喩表現を習慣にする"喩える人"と、"誰か"(最後までこれが誰かは分からない)。
喩える人は誰かに向けて、前触れなく「比喩」を口にする。

「どう言えばいいんだろうか、例えば、
 「雪化粧みたいな、白く降ってるんだ」
 「溢れた塩の瓶みたいで」
 「剥がれた壁のペンキなんだ、何度も塗り直した」

当然これだけでは「比喩」が何のことを言ってるのか、"誰か"は理解ができない。だから、その都度、翻訳を試みる。

 「寂しさ?それを言いたかったのね」
 「想い出?それを言いたかったのね」

でも、"誰か"のその翻訳行為を、"喩える人"は嫌悪する。

 「そう言えばいいんだろうか、
  嫌だな、テレパシーみたいだ」

なぜ彼は翻訳を嫌悪するのか。それは、彼の感じた〈寂しさ〉や〈想い出〉といった《想像》の全貌が、本来ある単語一つで表現し切れないほど豊かなものだからである。
そこで彼は比喩という《形式》の力を借りる。
しかし、それがそぎ落とされて単なる単語という《内容》として俎上に置かれると、彼が望んだ豊かな伝達は「テレパシーみたい」な無機質さに堕ちてしまうのだから、嫌で当然である。
逆に言えば、彼が産み落とした比喩を、"誰か"が単語に翻訳するのはかなり無神経な行いで、あえて言うなら表現を殺人することそのものなのである。

さて、少しこの曲から離れてみたい。決していたずらに脱線をしたいのではなく、こうした表現殺人は、今あらゆる創作の周りで起こっている一般的事象だと思うからである。
例えば流行りの歌について、「●● 考察」と検索をかければ、いくらでも考察記事が見つかるだろう。アーティストの了承なしに「これはしかじかの作品だ!」と、《形式》を削ぎ落し《内容》を取り出すことは、漫画でも、アニメでも、ゲームでも、映画でも起こっている。

"喩える人"のような表現者にとっては、自分の表現はまさに産み落としたわが子同然の大事な《想像》世界である。なのに、それを共有するや否や、分かったような分かってないような解釈が、大量に注釈される。それぞれには、同調する人もいれば、異論を唱える人もいる。どちらにせよ、そうやって考察者たちの間を回されるうちに表現の《内容》はすっかりこけ果て、もはや元の《想像》とは似ても似つかなくなるのだが。

僕ら非表現者がこんな酷いことをする理由は、貧しい自分から生じることのない豊かな《想像》に飢えてしようがないからだ。
他人の《想像》を表現越しに味わい尽くすには、その細部を検討して選り好む過程が必須で、そのために《想像》を《形式》と《内容》の無機質に堕すこともいとわないわけである。
僕がまさに今この曲に対して考察の斧を振るっているのはその何よりの例であるが……
つまり僕ら凡百は《想像》が乏しく空腹であるゆえに、他人の表現を殺して、食べている。

そろそろ曲の話に戻りたいと思う。次はいわゆるサビにあたる節だ。

想像で世界を変えて
お願い、一つでいいから
もう一瞬だけ歌って
メロディも無くていいから
寂しさでもいいから

鍵括弧が外れていることに注目しよう。つまりここは、2人のやりとりではない。
非表現者側の僕ら貧しき人々、「顔のない大衆」が、表現者に向けてシュプレヒコールをしている部分である。

しかし「メロディは無くていいから一瞬でも歌え」とは無茶極まりない要求だ。歌ってくれ、しかしもうメロディは無くてもいい、という矛盾である。このような無理筋を示し始めているのはなぜか。
それは、彼、"喩える人"の苦悩が見るからに痛々しいからだろう。以下はサビまでが2巡した後の、彼が比喩をもって孤独のつらさを吐露している一節である。

「そう、僕だけ違うんだ
 鞄に何か無いみたいで
 もう歩きたくないんだ」

僕らは彼の豊かな《想像》を殺すことはあれど、救うことは絶対にできないのだから、彼はこのまま表現を続ければ続けるほど、孤独と苦悩を深めていく。

こういった彼の苦悩を前にしたとき凡百どもが彼にかける言葉は、ただ苦しんでほしくないだけゆえにいかにも安直なものだ。

貴方を少しでいいから
もう一回だけ愛して
何も言わないでいいから

「何も言わないでいい」。
喩える表現者である彼にとってみれば、これは「もう表現をやめろ」ということだ。

そう言っておきながら、である。僕ら貧しき人々は他人の豊かな《想像》世界が、欲しくて欲しくて仕方ない。彼が目の前でボロボロになっていようと、その飢えを否定することはできない。しかし彼を苦しめたくはない。だから、最後のサビで以下のようなパラドクスを高らかに叫ぶ。

もう一瞬だけ歌って
メロディも無くていいから
言葉も無くていいから

そして最後には、とうとう比喩が停止する。
明らかに中身は2人のやり取りであるにもかかわらず、カギ括弧が取れていることに注目したい。それは彼らが「顔のない大衆」と同質化したことを示唆している。

どう言えばいいんだろうね
例えば、

この沈黙の意味するところはわからない。どうとでも取れる。疲れ切って《想像》が死んだのかもしれない。本当に自分を愛することを選べたのかもしれないし、《想像》を救えない無力感から諦めたのかもしれない。最悪として――僕ら貧しき人に自分の豊かさを分け与えたところで、何も意味がない、と、見切りをつけたのかもしれない。

いずれにせよ、非表現者側は愚直に安堵した。
果てしない孤独と断絶が、表現者と私たちの間に立ち現れてしまったのかもしれないのに。

ね?言わなくたっていいの

かたや孤独、かたや安堵をそれぞれが抱えながら終わる、救いようのない幕切れである。
それでいてこの曲の表現する絶望が美しいことが、これまた救いのないことだと僕は思う。

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