「これは水です。」について

いいスピーチがある。

とある祝辞のスピーチだ。どういいスピーチなのかは、まあ読んでもらえばいいし、もしくはこの記事を読んでるうちになんとなく分かってもらえる(たぶん)。

これと対照的なスピーチの話をした方が、良さがよく説明できる気がするので、そうさせてもらおう。
対照的なスピーチとして挙げられるのは、『努力すれば道は開ける』、『自分が変われば世界が変わる』という、啓発のテイをしたヤツである。ふつーの祝辞などで聞くスピーチとしては、こっちの方がありきたりというか、無難の感がある。「この世界の中に生きる"自分"を信じろ」というメッセージで、若人を鼓舞しようというわけだ。
しかし、新たな世界に漕ぎだす若人に向けてそうしたことを伝えるのは、啓発ではなく、むしろ目くらましでさえあることが、冒頭に貼ったスピーチ原稿を読むとわかってくる。

この世界は生きづらく、息苦しく、退屈で、いらいらすることが溢れている。と同時に、この世界とは資本主義の狂気の渦が生み出した、快楽のダンスの集合体でもある。この事実は件のスピーチの中で「車でショッピングセンターに寄る仕事からの帰り道」という例で、文筆家のDavid先生が驚くべき生々しさで描いてくれているから、ぜひ読んで欲しい。
とにかく、この世界で時を過ごす限り、不快と快楽の間の反復横跳びを、誰もが延々と強いられる。さながら地獄のようなもので、そして、歳を重ねれば重ねるほど、残念ながらこの地獄は紛れもない現実であり、誰もこの地獄から逃げることはできない、ということを、認めざるを得なくなる。

話を戻すが、こうした現実を"さておいて"、「この世界の中に生きる"自分"を信じ続ければよい」という言説には、本当に首肯できるだろうか?自分が変われば世界が変わる、というスタンスで人生をやり続けて、うまくいく人もいるのかもしれないが、たぶん大多数の人は、こうした現実にいつか打ちのめされて自分を見失うし、抑うつ状態や適応障害に陥ることすらあるだろう。
ゆえに、もし祝辞のスピーチという場でこういうエセ啓発を伝えるのであれば、それは全くもってご都合的というか、いかにも祝辞というおめでたい場に合わせた、聴衆を心地よく興奮させることに特化したおべんちゃらで、つらく厳しい地獄のような現実から目を逸らさせる「盲目の啓発」ではないだろうか、と僕は思う。


では、快楽と不愉快を繰り返す地獄、この現実こそが、僕たちの人生の本質だと考えるべきなのだろうか?それすなわち、「反出生主義」という、救いようのない境地に行きつく。
これはもうすっかり有名なismだが、簡単に説明すれば「苦しみの総量を考えれば、この世界を生きることは値打ちのないことだ(だから出生は不道徳だ)」という前提に立った主義である。

盲目の啓発、反出生主義、両方をある程度批判はしたものの、どちらかの中を生きることを否定するつもりは、僕には全くない。何を隠そう、昔の僕は(ある種の信条から)自分をそれはもう盲目的に愛していた。「自分が変われば世界は変わる!」で、東大合格まで行った。そして大学後半、ガチの失恋を体験し、自分史上空前絶後の苦しさを味わったことで、一時的に反出生主義に傾倒した。そうしたことから、僕はこれらを否定しない。というか、否定する権利がない、と言う方が正しい……。

ただ、多少冷静にやっていけるようになってから、僕なりに思うことは、こうしたラディカルな人生観を極め、達人の域に達し、その山頂の上から全ての物事を片付けようとすることは、危ういのではないだろうか、ということである。なぜなら、世界は広く、深く、予測不能で、難解だからだ。(このような霧深さであなたはどうやって「山頂」に立ったと知れるのか?その山は他の山よりも良い山なのか?その山が不朽不滅である保証はあるのか?そもそもそれは山なのか、実はただの、公園の砂場の起伏で、あなたはそこでじたばたしてるうちにたまたま地表に出られた盲目のムシみたいなもので、その足元は今にも、上位存在たる子どもたちの無邪気な遊びによって、崩れんとぐらついているのではないか?)
David先生も、違った表現で、スピーチの中で同様な警鐘を鳴らしている。

もっとざっくりとそもそも論を言えば、この世界には、人生観や特定のismに限らないいろいろな"山"があると言える。その中には『道徳』のような比較的よい山もあるし、『陰謀論』のようなあきらかに悪い山もある。
しかし困ったことに、僕らヒトという種は強烈にエゴイスティックだ。「自分こそが世界の中心である」「自分が見て、聞いて、知って、思い巡らせたことこそが、この世界の全てだ」ということを、僕らは"デフォルト"で思い込むようになっている、とDavid先生は言う。全くその通りだと思う。
このデフォルトにある限り、自分が何かしらの山を登っている(登らされている)ことは絶対に自覚できないし、他の山のことなんて、欠片も思い至らない。

こういう状態はとても危険で、なぜなら、ふとしたきっかけで意外と簡単に山が崩れてしまったときに、ひどい不安定と破綻に陥るからだ。
僕の例で言うなら、たった1回失恋しただけで、「自分が変われば世界が変わる!」という信条が砂と散り、「こんなに苦痛が多いなら、反出生主義は正しい!」へのアツい掌返しが起きたりする。この破綻は当時の僕にとっては本当に深刻だったので、あと少し何かが狂えば、取り返しのつかない事態に陥っていたと思う。
自分の例は確かに特殊な面はあるかもしれないが、同時にヒトという生き物の"デフォルト"に由来する破綻の、とても一般的な一例でもある。それゆえ、こういう危険は誰にでも、一生、本当にずっと付きまとうのだと思う。

そこで、このスピーチ「これは水です。」は、"デフォルト"を破り、この世界を少しでもよく生きていくための"教養"の大事さを説いている。教養がどう大事なのか、教養の本質はどういったものか、ということは、スピーチを読んでそれぞれが考えることだと思うが、
僕なりに説明するなら;
自分が登る山──今更だけどここで言う"山"は当然『学ぶべき対象』の比喩で、生活の中で大小様々の学問、仕事、歴史、教訓などの形をとって現れてる全てのものを指してそう読んでいるつもりだ──際限なく立ち現れる"山"を、まずは選ぶ●●ことができるようになること、そしてそれを登り降りする方法を学ぶことが、"教養"の最も本質的な部分であり、また「これは水です。」という、ちょっと変なタイトルの示すところの一部だ。

David先生は、以上を意識することが限りなく困難であることから『(魚にとっての)水』と言う。対して僕が『水』ではなく『山』とわざわざ解釈し直しているのは、単に、記事を書いてる中での流れであり、僕の悪い意味での卑近さの表れだ。
『水』の方が、よっぽどメッセージが深い。どう深いかは……いいから読もうよ、読めばわかるから、な?

最後に、このスピーチは和訳本にもなっている。

[思いやりのある生きかたについて大切な機会に少し考えてみたこと] とかいう、長ったらしくて気色悪い副題つきだけど……。
まあそんなに内容は変わってないだろう……。たぶん……。誰か買って貸して
くれない?


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