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ソムリエ*ヒカル 自己紹介

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私の正面(Front)の仕事は「コーチ」

普段は、企業コーチとして、コンサルティングや各種教育研修、会議ファシリテーション等を中心に活動していますが、じつはJ.S.A.のワインソムリエの資格を取得して、ワインリストの作成や、ワイン勉強会講師、ワインイベントを企画して、サーブしたりと、ワインソムリエとしての活動も行っています。

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(↑こちらは杉山明日香先生のソムリエ検定試験講座のアシスタントをしている、先月の二次試験対策ワインの写真。)

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(↑いずれシニアソムリエも取りたいし、ワインの受験指導の活動もしていきたいので、一番うしろの席で今年も一緒に勉強させてもらったりしてます^^;)

ワインとの出会い

大学を卒業して30歳までの(独立するための)修行の一環として入社した某最大手レストランチェーンが、カジュアルダイニング業態を開発した時に、一番若い社員としてかなり期待をされて、異動・配属となり、ワインとイタリアンと20種類ほどの紅茶をサジェッション(おすすめ)する店舗に勤務することになったのが、ワインと最初に向き合うことになった、出会いといえるかもしれません。

当時、私は24歳だったので今から25年も前のことです。

イタリアンとイタリアワインを中心に提供するNYスタイルの洗練されたカジュアルダイニングという位置づけのメニュー展開だったので、当然お客さまも料理とワインを楽しみたいと興味津々にお越しになる方ばかりだったので、こちらもメニューに載っているワインと、お客さまが「あれはないの?」と言われるようなメジャーなワインと料理との組み合わせを知っておく必要がありました。

イタリアにはなんとなく興味があったので(美術史の観点で馴染みがあった)イタリアワインの参考書みたいなものを買って、ワインについて独学して、休日は事あるごとにワインショップに行ってはワインを買って、ひとりでただ飲んでみる、ついでにチーズやパンやハムなどの周辺のものも一緒に買って試してみる、という、いかにも若者らしい独学スタイルで勉強しましたが、
(仕事中心で寝に帰るだけの生活だったので、転勤のたびに職場近くに一人暮らしが基本でした)
その時は、特に美味しいともなんとも思わず、ただ仕事だからこなす、というイメージで勉強していた記憶があります。

料理とワインを知る土台となった家庭環境

もともとアルコールに耐性があるいわゆるお酒が強い家系に生まれ、出される料理が、呑んべえな父のための(母も結構強い)いかにもアルコールに合うような料理の順番や組み合わせだったこと、母が料理が得意で凝り性で新しもの好きだったこと。
私が飲食業と切ってもきれない、食いしん坊となったきっかけは、家庭環境に尽きるのかもしれません。

実家は福岡県の久留米に近い田舎で、父は7人兄弟の5番目で本家の長男。
父のお父さんは戦争から片腕を無くして帰ってきて、それからほどなくして亡くなったそうで、次々にお嫁にいっていたお姉さん達(私の叔母さん)があるものの、父を含め残り3人の子供達を父のお母さんは女手ひとつで育ててくれたそうです。
勉強が大好きで陸上で活躍していて活発だったらしい父は、大学進学する予定だった高校3年生の時にお母さん(私からは祖母)が急に亡くなってしまい、両親を亡くてしてしまいました。

まだ学生の妹と弟の生活を見るために、大学進学を諦め、すぐに就職できる機動隊に入ってその後、警察の仕事に就くことになりました。
18歳で本家の跡を継ぎ、5歳も6歳も年の離れた兄弟を高校卒業して二人が結婚するまで面倒を見ていますので、おじちゃんおばちゃんは私が幼少の時はまだ実家に居て一緒に暮らしていた記憶があります。
20歳で嫁いできた母からすると小姑が2人もいる家に嫁いで、お嬢様育ちで世間知らずの都会っ子だった母は、その中に入り込むのに相当苦労したようで、そこで負けん気を発揮して料理上手になっていったり、うまく立ち回る術を身に着けたのかもしれません。
やんわりした品の良い見た目に反して、鋼のように強い意思のある現代的で洗練された考え方のある尊敬できる母だと感じていますし、

父は父で、一家の大黒柱であった苦労は、自分が18歳のときにそのような境遇だったら?と思うと凄いとしか言いようがなく、父のことも無条件で尊敬しています。

そんな経緯もあって、苦労人だった父は家庭を大切にする人情味あふれる大酒飲みとなり、いつも人に囲まれて未だに飲み会こそが人生だと思っているような人物です。

田舎の本家のためか、若い頃からのがんばりで周りのみなさんに気にかけていただいていたからか、実家は常に人の出入りが多く、家の中で一番良い場所に作られたお座敷は18畳近くあって、20名はゆうに一同に会食できる、常に宴会が行われているような家でした。
私はそこの長女です。

日本庭園がある、その他の庭などの敷地が広い一戸建てで、家庭菜園があり、梅の木やみかんの木、いろんな実がなる木が植えられ、早くから母の趣味でハーブをたくさん育てていたため、EXオリーブオイルやゲランドの塩などなど、当時(35年前くらい)にしては、田舎の他の家庭ではオリーブオイル?塩に種類があるの?ってくらいの時代に周りに迎合せず、食の王道を極めていく母の精神力が強い環境だったことはまず第一に大きいです。

食にこだわる母は、もちろん子どもたちにも清涼飲料水などは絶対に与えず、私が飲まされていたものは大豆プロテインみたいな粉をシェイカーで振って作る豆乳やアーモンドミルクのような栄養価の高そうなものがほとんどで、おやつはナッツやドライフルーツ、イリコとアーモンド、蒸したさつまいもや母が圧力鍋で作る蒸しパンなど、はっきり言って食育マジヤバイ家庭だったと断言できます。

母はとにかく凝り性で、自分で牛乳から自家製バターを作ったり、味噌や梅干しなどの調味料も自分で作るのはもちろん、
ブロック肉を買ってきてはミンチにする機械を使ってでひき肉をつくることから始まり、
(↓イメージとしてはこんな感じのです)

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(大昔はフードプロセッサーは普及してなくてイタリア製のテーブルに固定するネジのついた真鍮でできた手動のものでした)

イワシのつみれを作ろうものならワタヌキしたイワシをまるごと1匹骨ごとミンチする機械に頭から入れて私がバリバリ・メリメリと取っ手を回して本気のつみれが出てくるみたいな、捨てるところがないくらい全部食べてるようなそんな環境でした。

ああ、思い出したけど、家にはチャボ(ニワトリ)が飼われていて、小さい頃のしばらくは、卵も有精卵で産みたての卵を食べてましたし、犬も猫もいました。なんなら鴨も飼ってた。。。

私は小さい頃からお手伝いでこの機械でいろんな物をミンチしたり、ハンバーグやとんかつを作るたびに、パン粉をパンから作ったり、餃子を作ったり、簡単だけど一番野生的な原体験となるような、

できあいの便利なものを買えばきっとわからない、生生しい仕込みの部分がお手伝いの担当箇所だったりしたために、いろんなことの仕組みや隠されている秘密のようなことを知ることができました。香りの原体験はとても強烈です。

ハンバーグなどに入れるスパイスの数々(ナツメグやブラックペッパー)や、パンやイーストの香り、ひき肉にした時にほとばしる生々しい肉や血の鉄分のような香り、家庭菜園でのハーブの香りや、母が好きで力を入れていた花壇に咲く百花繚乱の色とりどりの素晴らしい香りの花々や、家の庭や地域で採れるフレッシュな果物、発酵する漬物や麹の香り、採ってすぐ食べる野菜の青い香り、雨の香り、春の苦い香り、夏の潮の香り、小川に自生するセリやクレソンの香り、などなど

そういったものに自然と普通に囲まれて、自然と鼻が利くようになっていたのだと思います。
若い頃は香水にはまるというところまで行ってるので、おそらく香りが大好きに育っているという土台は、家庭環境にあったと言えます。

今考えると、ソムリエのテイスティングに必要な香りを嗅ぎ取る要素は、いつもすぐ身近に当たり前にようにあって、それをいつも好ましく感じて育っていた幼少〜大学生までの時代があったことが、試験対策のテイスティングの時間をとても興味深く、楽しく、コツを掴みやすかった。という利点につながっているのかもしれません。

アルコールに強い家系なので、テイスティングと思って神妙に感じ取りながら飲めば、いくら飲んでも全く酔わず(酔えず?)テイスティングをたくさんしても別にどうってことなかったところも両親に感謝。

有り難いことに、実家での食事は、外に食べに行くよりも遥かに鮮度が高く、確実に美味しく(母が厳選した良い調味料を使っているから)、素材が良い(母のコミュニケーション能力のおかげで、近所の魚やさん、肉屋さんのご主人は、目利きの母を見つけると、他には出さない、とっておきの天然物を母に求めやすい価格で売ってくれたりしていました)もので、食環境としては最高でした。

純粋培養的に食いしん坊&美食の環境で育ったため、ワイン+料理のペアリングなどの概念は、物心ついた頃から家庭の食事で実践として叩き込まれていた部分があり、だからこそ大学を卒業してからの修行の場を「飲食業」に絞るきっかけになったということもあるのかもしれません。

誤解のないように説明しておくと、父は普通に公務員で当時も給料がよかったわけではまったくありません。
母がやりくり上手で、酒好きの父の大量に食べる食事と、お酒。それにかなり頻繁に出かけて飲み過ぎる外交費(←飲み代)で私は大学までいかせてもらったし、妹も弟もいるし、家計にゆとりなんてなくて単に「エンゲル係数」が高い、食べることを大事にしていた家庭、という位置づけのごくごく普通の家庭をイメージしてもらうのが近いです。

飲食店のマネジメント職で就職した20代

そんな土台があるので、修行のために飲食業界に就職して、
イタリアンの業態に異動になった時も、ちょっとは勉強したけど、土台があるから、ちょっと勉強するだけで、お客様にある程度の商品知識、料理との組み合わせが説明できるようになり、そのせいか当時はあまりワインに楽しさを覚えることもありませんでした。
つくづく、苦労したり、興味を持ってはまり込まないとスルーしてしまうもったいない性格です。

当時は大人に憧れていたせいか、ブランデーとかウイスキーとかそっちのアルコール度数50度くらいの世界で大人ぶった20代を過ごしているのは、今考えたらとてももったいない過ごし方でしたね。。。

20代半ばで店長になってからは、もともと好きで向いていたマネジメントスキルもますます精度が上がり、店長業務も2.3年していると数字の作り方をマスターして、組織づくりもある程度安定してできるようになりました。

調理システムが簡単な単一業態では、チャレンジできる部分はだんだん少なくなり、そのうち自分を少し持て余すようになってしまいます。
とても生意気だったと思います。

そもそも組織づくりが安定していたのは、持って生まれた逞しさと、もともとの明るい性格、そして大学で学んでいた心理学や哲学、思想や美術史、それを踏まえて個別対応しようと思いついて編み出したつもりになっていた「コーチング」の手法がはまってうまくいっていたのはとてもラッキーなことでした。

これがきっと「他の人には難しいけど、自分は苦労せずにできるスキル」ということで、マネタイズしやすかったので、独立してからの18年間、長続きしてコーチングの仕事をさせていただいている所以でもあります。

30歳までの私の横顔(Profile)

新卒で入社して1年の研修終えてしばらくすると、初めての異動が、社内で初めてできた高級業態(とはいえカジュアルダイニングですが)となり、イタリアン運営の勘所のようなものを知り(今考えると業態のブランディングのようなもの)、大手チェーンでは利益をあげるのはなかなか難しいことだとわかったため、

利益を追求したくて(自分の能力を試してみたかった)数字だけを追える業態へ異動願いを出して受け入れられました。

たまたま新規業態で、これから全国に大量の新店舗を展開するタイミングでの移籍だったので、新店オープンをプロモーターの立場で新規立ち上げ、古い業態から業態変更など、10数店舗の立ち上げを一気に経験することができ、自分が店長の立場でも新店舗のオープンも手掛けることができました。

店長としてオープンした自店は、2年見たあととても良い状態で引き継ぐことができたので、社歴の最後の方は不採算店舗の立て直しのミッションが与えられました。

ひどい状態になってしまった店を(今考えると)コーチングの手法でもとに戻し、さらに売上を伸ばして組織体制を整えていき、男性社会の中で数少ない女性マネジャーだったこともあり、いわゆるやり手と思われるような20代後半でした。

上位10%の業績(毎月順位が出されました)優秀店長として表彰されてパーティーに出席したり、ロサンゼルスとラスベガスの視察研修旅行の資格を得て、研修メンバーに選ばれたりもして、飲食業の会社員では経験することが難しいような様々な経験をさせていただくことができました。

ここまでできるようになれば、自分でフリーランスで独立してもなんとかできるでしょうし、仮に自分でやっていくのが難しくなったら、私にとって店長って仕事は、多分人よりも苦労せずにできる得意な職種と言えるだろうから、またどこかで雇ってもらえるくらいのレベルには達したのではないかな?と思えたので、

入社のときの人事との約束だった「30歳」で退職という流れで、今から18年前の2002年、新卒で入社した会社を退職し、ここで私の中での最初で最後の「就職」が終わります。

そもそも自分が作り上げる組織ならまだしも、在り物の組織に自分が馴染めるなんて、入社する時から1ミリも思ってなかったので、30代になったらフリーランスで自分が好きなことで生計をたてていきたかったので、「経営」の勉強ができそうな「飲食業」を選び、せっかくだったら大いに修行ができる泥臭いテーブルサービスで最大手の所で効率よく店長となり、店舗の経営ができるレベルのことを20代で学ぼうと、一番苦労しそうな職種を選んで就活した、という経緯がありました。

年商で2億〜3億の24時間営業の店を、社員1〜2.3名であとはアルバイトスタッフという構成で、20代の若い店長が頭と体をフル回転させて預かって運営させてもらえる。こんなチャレンジングで実力主義の武者修行ができる場所は飲食をおいて当時は他にはありませんでした。

たまたま私は最初から覚悟を持って入って、うまく結果を残せたからこそこうやって振り返って語れるとおもうのですが、私が入社した当時は100人の新卒採用があり、半年間の研修の後のフォローアップ研修でまたみんなで集まった時には、半数の50名が既に会社を辞めていて、すごく過酷なところに入ったもんだと思ったことを思い出しました。

なぜソムリエの資格を取得することになったのか?

30歳で前職を退職してからは、すぐにコーチングやいろんなことを学ぶ時間にあて、独立してフリーランスでコーチとして生計をたてるようになりますが、やはりもともと8年も飲食業界にいて、誰でもが知ってるような大手のレストランチェーンだったこと、店長としての経験が豊富だったことから、当初は仕事の依頼は自然と「飲食業」に関することが増えていきました。

最初のうちは、コーチという仕事がまだ認知されておらず(18年前ですからね)コーチングというよりも、コンサルティングやトレーナーとしての要望が多かったせいか、独立してからも飲食とのご縁がありました。

現在では、サービス業全般で、特に店舗展開している企業のチームビルディングに関してのサポートの依頼が多く、

飲食だけではありませんが、そうとはいえやはり飲食業はもともと馴染んだ業界でもあり、店長の気持ちも部長の気持ちもスタッフの気持ちも経営者の気持ちもよくわかりますので、望まれれば、店の営業に入り込んで指導したり、クライアント企業で新しいチャレンジがあるとなると、自分もみなさんと一緒に勉強して、と二人三脚的に自分まで勉強していってしまうので、長くやっていればいるほど、資格の数が増えてきてしまうのもそのせいです。

そういった流れで、ティーアドバイザー、野菜ソムリエ、イタリア料理研究家、などなどの飲食関係の資格もいつのまにか取得しており、おもてなしを学ぶつもりで始めた茶道は、今年師範の免状をいただけるほど没頭している。。。そんな中、クライアント企業のイタリアン部門でみんなでワインを勉強することになったので、先生をお招きしますが、とてもすごい先生なんですよ、ヤツグさんも一緒にいかがですか?

と誘われて、クライアントに誘われれば普通「いいですね!ぜひお願いします!」となるじゃないですか。

そんな風に気軽に勉強します、と言ったらば、そこにわざわざ東京からお招きしてお越しになった先生は、ワインソムリエ受験の教科書を作成されていることで有名な「ワインと日本酒の伝道師として活躍する物理学博士」杉山明日香先生だったという…。

↓ソムリエを受験したことがある方は、こちらの本にお世話になったのでは??(^^)

これは、ガチな受験講座なんじゃないか?
え?大丈夫なの?私???と巻き込まれ事故にあったような怒涛の受験期間を過ごし、無事合格したのですが、

今思えば、今までの経験のどれもがワインソムリエの資格取得にあたって無駄になっておらず、ワインエキスパートではなくてソムリエの方で資格がとれたことも、飲食店とのご縁がずっと切れずに受験資格があったことも幸いしました。

二次試験でのテイスティング対策の時などは、詰め込みのようにワインを飲みまくる日々を過ごしてしまいましたが、今まであれだけ、「美味しい〜♡」とか言いながら確実に経験したことのあったワインでさえ、テイスティングの方法を知らずにただ飲むだけだと、まったくもって消費していただけで、全然身になっていなかったことに驚き呆れ。。

一度学んで「型」に合わせて日々訓練していくことが重要なんだと気づくことができました。

テイスティングが上達するようになってくると、試験のために覚え込んだ、分厚い電話帳一冊分くらいの教本の知識と結びつくようになり、徹底的に「地形」「気候」「収穫時期」「醸造の仕方」など頭に入れたことによって、香りを嗅いだだけで、ソムリエ取得前よりかはだいぶ頭の中に、その中身に関してのプロファイルのようなものがイメージできるようになってきました。(もちろんまだまだ修行中です)

私がもともと好きでライフワークにしていたこと

そういえば、私は人の氣持ちの成り立ち、心について、氣持ちの裏側などのその人に刻まれた経験の歴史(インプットされたもの)、それを表す行動や作品(アウトプットされたもの)に小さい頃からずっと興味があり、だからこそ大学は人文学部の文化学科を選び、美術史を専攻したわけです。

これって、ワインに関しても、コーチングに関しても、教育指導、訓練に関しても、マネジメントに関しても、すべての私の関わることに活かしてきたからこそ、結果を出すことができた「洞察」に関する訓練のような氣がします。

商品(作品)として出来上がったものの背景情報は、その外見情報と密接に関わっていて、出来上がったものを見えればその過程をイメージできる、ってくらいそこに精通すれば、そこ(結果・数字・状態)から俯瞰して過程が手にとるようにイメージできれば「課題の発見」ができたり、「改善活動」「イノベーション」ができるのかもしれない。

私はその「ひとつのものを見てすべてをイメージする」という洞察分野がもともと好きで、なんとなくそのプンプンする匂いを嗅ぎ取っては、いろんなものを吸収し、訓練を重ねていっている。
その積み重ねが趣味の広がりであり、これこそが自分のライフワークなのだと思えます。

例えばハンバーグを焼いているスタッフに注意をする時も、出来上がりの状態から逆算してイメージすれば、間違った手順も、ミスを隠そうとして行った行為さえも違和感を持ってイメージできますので、そこを指摘すれば、見てもいないのになぜわかるんだ?とゾッとして、せめてもの抑止力にはなり得ますし、
特に店舗の空気感や違和感などは、1歩店舗に入っただけで、もしくは外観の情報からだけでも逆算して「きっとこんな手順で、こんな指導方法で、何が原因で、このような状態になっているのか」が洞察できることは仕事を続けていく上でとても大切な資源であり、とにかく世の中の成り立ち全てに興味があるわけです。

どうしてワインだったのか?

ソムリエの勉強をし始めて気づいたことですが、多分私はワインが大好き。

回り道しちゃったけど、もしかしてワイン(シェリー含む)という飲み物がアルコールの中では一番好きかもしれない、って今更ながら気づきました。

なぜ好きなのか?と聞かれれば、美術品のような特別な「作品性」があることと、食事に一番合う(と私は思っています)こと、生産された地や生産者やその周辺の歴史的背景などに思いを馳せることができ、特別なワインには感情が揺さぶられ、しかも知的な側面もあること。
ワインを通じてコミュニケーションが増えること。

そのどれをとっても自分がもともと好きで通ってきた道、これから向かいたい道に通じるもので、自分としては「茶道」「コーチ道」に続き「ワイン道」も道として粛々と、精神性を豊かにしながら日々修行をしていく道として、時には仲間を増やしながら、時に誰かのかけがえのない時間を演出したり、自分と相手の幸福度を上げる、ひとつの手段として試練を軽々と楽しんで乗り越えていきたいな、と思っている所存です。

現在、コロナ禍であることを考慮してワインイベントは行っておりませんが、こちらの店舗で定期的に
「天ぷらと寿司と日本ワインを楽しむヒカル会」というワインイベントを行っております。

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↑こちらはコロナ前、今年の3月はじめに行ったヒカル会の最後の集合写真

毎回違うメンバーが集まって、一期一会の人と料理とワインの出会いがあるイベントです。

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↑和食のOMAKSE(おまかせ・天ぷらと寿司がメイン)に合う日本ワインを毎回メンバーと食材に合わせてペアリングしています。

またワイン会が再会できることを楽しみに、これからもワイン道励みます。

長くなりましたが、私のワインソムリエとしての自己紹介でした!

どうぞ今後ともよろしくお願いいたします(^^)

ソムリエ*ヒカル

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