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原子炉・加速器で癌を治す 第3回 加速器を開発せよ

取材・執筆:下山進

 新たな中性子源として加速器の開発が待たれた。京大原子炉実験所の丸橋晃は、三菱重工ついで住友重機を訪ね開発を打診する。ホウ素剤のメーカーが開発に加わり事態は進展する。

 2002年4月に京大原子炉実験所の教授として迎え入れられた丸橋晃は、医学物理が専門だった。筑波大学の助教授から着任した時の希望は、陽子線治療施設の建設だった。しかし、小野公二に、2001年12月に照射をうけた67歳の女性患者の写真を見せられる。

「こりゃすごいわ。これほおっておいたらいかんのじゃないの」

 以来、丸橋もBNCTにのめりこむことになる。

 頭頸部癌のこの女性の成功は大きく、それまで年間5例程度しか、BNCTをつかった臨床研究は行われていなかったのが、年間80例から90例をやるようになっていく。

 しかし、問題は原子炉でやっているかぎり、臨床研究から出口がないということだった。一般の治療に供するための薬事承認はそもそも無理だ。さらに、2006年には、原子炉の廃炉が決まっている。この廃炉こそ、頭頸部癌の臨床研究の成功のおかげもあって、後にまぬがれることになるのだが、しかし、別の中性子源を見つけることは喫緊の課題だった。

陽子をベリリウムにあてる

 1936年にゴードン・ロシャーが書いた「中性子の生物学的効果と治療法の可能性」の論文のなかに、すでに、「ではその中性子をどう得るか」という問題が書かれている。まだ原子爆弾も原子炉もなかった時代、ゴードン・ロシャーは三つ方法をあげ、そのうちのひとつに、ラジウム・ラドンから出てくるアルファ粒子をベリリウムにぶつけるという方法をあげていた。

 加速器の開発は1930年代から始まっている。電磁石のプラスマイナスをきりかえていくことで、プラスの電荷をもつ陽子を加速していくのである。水素からイオン源によって電子をとってしまったのが陽子。

 加速した陽子をベリリウムにぶつけて中性子を発生させる。そんな加速器の開発が別の中性子源になる。加速器であれば原子炉に比べれば遥かにコンパクトで、病院に併設することもできるだろう。

 丸橋は最初、東北大学にある加速器をもとにして設計ができないかと考えた。この加速器は三菱重工がつくったものだが、エネルギー数がBNCTに使うには足りない。再設計をしてもらう必要がある。丸橋が設計資料もつくって三菱重工にもちこんだが、「将来的な需要がみこめないからつくれない」というつれない返事だった。

 小野と二人で途方にくれた。住友重機械工業も医療用の加速器をつくってきた実績があったので、大阪の出張所に行って話をしたがらちがあかなかった。

 そこで、筑波大学時代に陽子線治療装置の売り込みにきて知り合っていた住友重機械工業の佐藤岳実を東京本社に訪ねた。佐藤は、北海道大学の工学部原子工学科出身で、住友重機械工業に1976年に入社、主に加速器の物理機械設計を担当してきた。

 丸橋はここで、2001年12月にBNCTを行った頭頸部癌の女性患者の劇的な回復の写真をみせながら説得した。

「このように、実際に効果がある。しかし、原子炉でやっているかぎり、薬事承認はない。加速器をなんとしても京大原子炉実験所につくりたい」

 住友重機械工業は、もともと、医療用の加速器をつくってきた実績がある。これはPETを用いた癌の画像診断に用いられるものだ。陽子を加速器でまわして、グルコースあてると不安定な同位体になる。そのグルコースを人体に投与すると、栄養分なので、代謝の激しい場所に集中していくことになる。すなわちがん細胞である。そのグルコースの同位体がもとにもどる時に、微弱な放射能を出す。それを磁気画像でとらえるというわけだ。

 住友重機械工業はこのPET用の加速器を病院に納入していったが、丸橋が佐藤を訪ねた2005年はちょうど、だいたいどの病院にも売り終わったところだった。つまりこのBNCTは新しい販路になるかもしれないということだ。

 しかし、何よりも、佐藤は、67歳の女性の劇的な回復にロマンを感じた。

 住友重機械工業で、佐藤という理解者をえたために、丸橋・小野らの加速器構想は一歩前進することになる。

 しかし、問題は、京大に加速器を買うだけの金がないことであった。

 どんなに少なくみつもっても20億円弱はかかる。

丸橋晃

BPAの発見 

 BNCTの実用化のためには、物理の側面では加速器が必要だった。化学の側面では、がん細胞に選択的にくっつくホウ素剤が必須だ。

 適切なホウ素剤をうまくみつけられなかったために、1950年代、60年代の米国における脳腫瘍への照射は、健康細胞の壊死という問題を引き起こしてしまったことはすでに述べた。

 それをのりこえたのは、悪性黒色腫に対するホウ素剤の開発からである。

 話は、1976年までさかのぼる。

 日本では、米国の失敗に終わった脳腫瘍への照射のチームに加わった畠中の流れと、X線が効かない悪性黒色腫(メラノーマ)への適応を考えた神戸大学の三島豊の流れがあったことはすでに述べた。

 医学部の皮膚科にいた三島は、悪性黒色腫は、癌細胞がメラニン色素を食べて増えることから、それを利用したホウ素剤をつくれないかと考えたのである。

 メラニンの前駆体のチロシンという物質にホウ素(ボロン)をくっつければ、悪性黒色腫の癌細胞はとりこむかもしれない。疑似餌だ。

 そう思って、東工大の垣花秀武に連絡をとった。垣花は、イオン樹脂交換法をつかってボロンのなかでも、中性子をよく捕捉するボロン10(10B)を分離する方法を開発していた研究者だった。

「チロシンかそれが酸化したドーパというメラニンの前駆体に、ホウ素しかもボロン10を導入できないか」

 この仕事を、垣花は当時研究室に入ったばかりの吉野和夫にふる。

 吉野は、すでに1958年にスナイダーという化学者が、ホウ素を組み込んだBPAというチロシンの類似体を合成し、論文にしていたことをつきとめる。その論文には、作成方法が丁寧に記されていた。

 吉野は、これを垣花に示して、三菱油化に連絡をとる。これと同じ物質を合成してほしいと依頼した。三菱油化は、1957年のスナイダーの方法にしたがって物質を合成する。

 ここで得られた物質BPAを、メラノーマを移植したハムスターに投与するという実験を、垣花の研究室は三島の研究室と共同で行った。するとメラノーマの癌細胞には、健康細胞の11倍のボロン10が集まった。そして熱中性子を照射(BNCT)すると、健康細胞にくらべて2.3倍から3.1倍の致死効果が認められたのである。

 1981年12月に出した論文の結語にはこうある。

「本化合物を用いた熱中性子捕捉療法実験で優れた治療効果が認められ、ボロン10を導入したBPAの本療法における卓越性が見られた」

 このとき、初めて研究者は、癌細胞に集積するホウ素剤を見いだしたのである。

 のちに、BPAをとりこむのは、悪性黒色腫だけではなく他の癌も選択的にとりこむことがわかり、BPAは、BNCTになくてはならないホウ素剤になる。他の癌がとりこむのは、これをメラニンの前駆体と認識するからではなく、アミノ酸と認識して、分裂の激しい癌細胞は食べるのだとわかった。

 そしてこのBPAの発見が、後に加速器の開発費用を提供する製薬会社の誕生につながっていくのである。

メラニンの前駆体にホウ素をつけたBPAという物質はスナイダーによって、1958年にその製造法が公表されていた。

19億円の投資

 大阪に本社のあるステラケミファは、もともとフッ素を製造するメーカーだった。フッ素を使った半導体の洗浄液などで90年代に売上を伸ばしていたが、他分野への進出を、代表取締役会長の深田純子は考えていた。ステラケミファは戦前からある同族会社で、深田は大株主でもあった。

 三フッ化ホウ素というガスを使って自然界に2割あるホウ素の同位体ボロン10を濃縮する技術も持っていた。このボロン10は、中性子を吸収する力が強く、たとえば、原子力発電や核爆弾の臨界制御につかわれていたりした。

 そのボロン10の製造設備を、泉大津に94年に作ることになったことから、ボロン10の販路を考えろというのが浅野智之という応用化学出身の係長に与えられた使命だった。たとえば、ボロン10を防護服に編み込んだ放射能防護服をつくったりしたが、しかし、これはあまり売れなかった。

 浅野はBNCTにボロン10が必要だということを商社の人間から聞き込む。泉大津から、京大原子炉実験所が近かったこともあって、商社の人間に紹介を頼んで原子炉実験所の教授の小野公二を2000年に訪ねたのが始まりだった。

 そうこうしているうちに、劇的な2001年12月の頭頸部癌の成功事例を浅野も見ることになる。この症例をもって浅野は、製薬業への進出を会社の中で提案する。

 浅野は、住友重機械工業の佐藤岳実と日本中性子捕捉療法学会で知り合い、連合戦線を組んだ。ボロン10をつかった薬剤として承認をされるためには、まず加速器が開発されなくてはならない。会長の深田純子に相談をすると、その金を出してもいいということになった。

 加速器の値段は19億。

 売上が200億円台の企業にとっては小さな額ではない。しかし深田純子は、こう言って投資を決断したのである。

「半導体関係だけやっていても、先が見えている。薬剤のほうに進出してみようと思っている。うちが加速器を買ってやる」

 このようにして、ステラケミファが19億円の金を出して、住友重機械工業が開発する加速器を買い、それを京大原子炉実験所に寄付する形にした。

 この契約の締結が、2007年8月。

 その2カ月前には、ステラケミファは100パーセント子会社の製薬会社ステラファーマをつくった。代表取締役は浅野だ。浅野は、大阪府立大学とともに、流通できるBPA「ステボロニン」(※1)を開発していた。その薬事承認の申請を後にこの会社はすることになる。

 BPAは公知の物質なので、特許はとれない。臨床研究の時には、研究者が原料の粉末を買って溶かして使っていたが、滅菌ができないので、流通が難しい。これを特殊な溶解剤を使って流通が可能な形にしたのが「ステボロニン」だった。これによって原料のボロン10の販路も拡大しようというわけである。

加速器の開発はなったり 

 医療用PETのための加速器の陽子にたいするエネルギーは18ミリオン電子ボルトだったが、BNCTに必要な中性子をだすには、20ミリオン電子ボルト必要。安定した中性子をだすためには陽子のエネルギーをあげる必要があり、そこが難しかった。

 また、アメリカの加速器は、陽子をリチウムにあてて中性子をだしていた。しかし、リチウムは180度で溶けてしまう。陽子をうちこんでいるうちに数十キロワットのエネルギーが付与されるからその冷却が必要だった。だから日本では、陽子をベリリウムにあてることにした。BNCTのためには、一平方センチに1秒間に、10の9乗個の中性子が必要だ。ということは、陽子をベリリウムにあてるところでは10の13乗から14乗の中性子を発生させる必要がある。そのために、エネルギーの高い陽子を加速できる装置が必要だったのである。

 住友重機械工業はそれをやりとげ、2009年3月には京大原子炉実験所に加速器が納入された。

 日本で初めてのBNCTのための加速器であった。

 この加速器で陽子をまわし、ベリリウムの板にぶつけて、安定した熱外中性子を出す。

 住友重機械工業の加速器と、ステラファーマのBPA、このふたつで薬事承認をえるための治験が2012年からまず脳腫瘍で始まることになる。

京大と住友重機が共同開発したBNCT用の加速器 (写真提供 小野公二)

※1 「ステボロニン」の商品名がつけられたのは後のことで、当時は「SPM-011」と呼ばれていた。本稿ではわかりやすさを優先するため「ステポロニン」の名を使った。

つづく


証言者・主要参考文献

丸橋晃、吉野和夫、浅野智之、深田純子、小野公二、田中浩基

「癌細胞の分化形質による選択的原子炉療法」 昭和52年度文部省研究費による「がん」特別研究報告 三島豊

「Melanoma seeking agent, 10B1-para-boronophenylalanine(10B1-BPA):選択的親和性と致死効果」 中西 孝文、市橋正光、辻 正幸、三島 豊、吉野和夫、岡本真実、垣花秀武 

1980 12, Proceeding of The Japanese Society for Investigative Dermatology

“MELANOMA-SEEKING PROPERTY OF 10B1-PARA-BORONOPHENYLALANINE・ HCL,” Masayuki TSUJI, Yutaka MISHIMA, Masamitsu ICIHASHI, Takafumi NAKANISHI, Tooru KOBAYASHI KeijiKANDA,Kazuo YOSHINO,and Makoto OKAMOTO,1981 12,Proceeding of The Japanese Society for Investigative Dermatology

“Synthesis of Aromatic Boronic Acids. Aldehydo Boronic Acids and a Boronic Acid Analog of Tyrosine” By H. R. Snyder, Albert J. Reedy and Wm. J. Lennarz, Journal of the American Chemical Society, Feb. 20, 1958

冒頭のサムネイル Photo/小野公二