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がん新薬誕生 第4回 甲状腺がん治験第三相

取材・執筆:下山進

 メラノーマで他社に先行され、後がなくなったエーザイが選んだのは甲状腺がんでのフェーズ3だった。ここでも先行するソラフェニブを抜く成績をだすことができるか? 

 甲状腺はヨウ素をとりこみ甲状腺ホルモンとして分泌する器官だ。だからそこが「がん」におかされたときには、ヨウ素131を飲む治療が行われる。ヨウ素131は、半減期が7日で、その際に微弱な放射線を出す。この放射線を使ってがんを叩くというわけだ。だから、この治療をうける患者は、アイソトープ室という鉛の壁で覆われた放射能を外に出さない病室で、3、4日過ごす必要がある。

 パリ南大学の難治性甲状腺がん関連センターの医者マルティン・シュルンベルジェにとっても、第一選択は手術とヨウ素131だった。しかし、一部の患者は、ヨウ素131の治療の最中にも、がんが進行したり、転移したりすることにシュルンベルジェは気がついていた。

 これは放射線に耐性のあるタイプのがんで、そうしたがんにあたると、もう手のほどこしようがなかった。

 この放射線に耐性をもつタイプの甲状腺がんに対しては、殺細胞性の第一世代の抗がん剤を治験で試したりしたが、まったくもって効果がなかった。 

 2005年にシュルンベルジェは、ふたつの製薬会社からコンタクトをうける。メレスチニブとイブルチニブという薬の血管新生阻害剤の治験の責任医師になってくれないかという依頼だった。フェーズ2試験が行われるが、がんの縮小をみる奏効率で、ほとんどみるべきものはなく、メレスチニブの開発は中止に追い込まれ、イブルチニブも一部の白血病に用いられることになったにすぎなかった。

 そして2000年代後半になると、ソラフェニブやスニチニブそしてエーザイのE7080が登場する。

 エーザイのジム・オブライエンや大和隆志が、2010年にパリで行われた国際甲状腺学会で、シュルンベルジェに接触したとき、すでにソラフェニブは、甲状腺がんに対してもフェーズ3の治験に入っていた。

 すでに腎細胞がん、肝細胞がんで承認をとっているソラフェニブがフェーズ3に入っているのであれば、勝ち目はない、とシュルンベルジェも考えた。が、エーザイのもってきたフェーズ2までのデータを記した資料をみて、考えを変える。

 ソラフェニブの肝細胞がんにおけるフェーズ3での奏効率は、わずか2パーセントしかなかった。つまりソラフェニブを投与してがんが縮小した患者は2パーセントしかいなかったのだ。がんのサイズがそのままであるSD(Stable Disease)が71パーセント。このSDのおかげで、全生存期間(OS)はプラセボを投与された患者の群にくらべて、3カ月うわまわっていた。7.9カ月が10.7カ月になる。それをもって承認とされていたのだった。しかし、わずか余命が平均で3カ月伸びるにすぎない。

 E7080は、フェーズ2の結果によれば、がんをそのままの状態にしておくだけでなく、縮小させる効果をもっていた。とすれば、仮にソラフェニブが甲状腺がんで承認されても、チャンスはあるということになる。

 しかも、ソラフェニブの治験の結果がわかっていない今、すぐに治験に入れば、対象群をプラセボにおくことができる。勝ち目のないゲームではない。

 実際、エーザイの大和はこのとき、内藤晴夫にこのように説明して了承を得ている。

「ソラフェニブが承認されれば、治験はソラフェニブとの比較試験になってしまいます。やるなら今しかありません」

「勝てるか?」

「勝てます」

「命かけるか?」

「かけます」

 こうして、マルティン・シュルンベルジェは治験責任医師となることをひきうけ、エーザイは、甲状腺がんをE7080の最初の突破口にすることに決めたのである。

大和隆志 2022年

 このころにはE7080には、レンバチニブという名前がついていた。エーザイは ENVATINIB (Eisai New Vascular Antagonist + TINIB)を提案したが、米国での一般名を決める評議会からenvatinibからlenvatinibに変えてはどうかと要請をうけ、その受け入れを決定しレンバチニブとなった。

 本原稿でも、これ以降レンバチニブと表記することにする。

コストとベネフィットのシビアな選択

 甲状腺がんのフェーズ3は、国際治験となり、米国、欧州、アジア各国、オーストラリアの各医療施設で2011年8月5日から行われた。ヨウ素131に耐性がついてしまった甲状腺がんの患者392人が参加。このうち、261人がレンバチニブの投与をうけ、131人がプラセボの投与をうけた。もらっている薬が、実薬か偽薬かは、患者も医者もわからないようになっている二重盲検試験である。

 がんの治験は、難治がんを対象としているために、アルツハイマー病の治験などと違って、治験中に、患者が死んでしまうことは日常茶飯事だった。たとえば先のソラフェニブの肝細胞がんのフェーズ3治験では、参加した602人の患者のうち、321人の患者が治験中に亡くなっている。

 レンバチニブの甲状腺がんの治験でも、392人のうち20人が亡くなっており、そのうち6名が、レンバチニブの副作用がきっかけで亡くなったと考えられている。

 この甲状腺がんの治験に入った患者は、放射線耐性をもったがんの人々なので、病状は重い。骨に転移している人が、レンバチニブの投与をうけた261名の中で、104名、肺に転移をしている人が、226名いた。骨と肺に転移している人が69名。レンバチニブの副作用のうちに疲労がある。そうしたことで病状が激変することもあるということだ。

 つまり、がんの治療というのは、生命のコストとベネフィットのシビアな比較のうえになりたっている。

 治験は、かならず、その設計時に、評価項目を定める。その評価項目を達成するか否かが問われることになる。レンバチニブの甲状腺がんに対するフェーズ3の治験では、PFSが主要評価項目とされた。PFS(Progression Free Survival) とは、がんの腫瘍がまた病勢をもりかえし大きくなるまでの期間をみる。副次的評価項目に、奏効率と、全生存期間(OS)をおいた。

 マルティン・シュルンベルジェは治験責任医師として全体の治験をみていたが、自分の患者もこの治験に参加している。

 シュルンベルジェは、まず自分の患者への投与を通じて、この薬は用量が少なくていいことが利点だと考えていた。レンバチニブは24ミリグラムを一日一回服用するだけだ。ソラフェニブだと、400ミリグラムを一日二回服用する必要がある。レンバチニブでも、高血圧や下痢などの副作用がでるが、強い場合には、用量を下げる。こうすれば、副作用をある程度コントロールできる。

 そしてシュルンベルジェが担当している患者だけをみても、腫瘍が縮小している例があることがわかった。しかも縮小するとその状態が長く保たれている。

 2013年11月15日が、データカットオフと呼ばれる、統計収集のためのデータをチェックする最終日となった。そこまでのデータをもとに、PFSやOSなどの統計を集計するのだ。

マルティン・シュルンベルジェ 

コードブレイク

 エーザイでは、「アリセプト」の特許が切れ、てぐすねをひいて待っていた他の薬品メーカーが安いジェネリックを出してアリセプトの市場を奪っていっていた。

 2009年度には8032億円をあげていたエーザイの売上は急降下を始める。2010年度には6840億円、2012年度には5737億円、わずか3年で、金額にして2295億円、全体の3割もの売上がふっとんでいた。

 あけて2014年1月、レンバチニブのコードブレイクの日がやってきた。

 この日、バイオスタティスティックグループから、がんグループを率いる大和隆志、HOPEのインターナショナルプロジェクトリーダーのジム・オブライエン、臨床部門のトップアルトン・クレイマーの3人にフェーズ3の治験の結果が伝えられる。

 特許の崖を転げ落ちているなか、筑波研究所のがんグループの開発したレンバチニブは救世主となってくれるだろうか?

 外部のデータ会社が、治験データをあつめて管理し、それをまた別の会社ががんの大きさの変異を測る。それらが、エーザイのバイオスタティスティクスグループ(生物統計学グループ)に送られ、このバイオスタティスティクスグループが解析をする。解析している間は、社内の誰にも情報は漏らさないということが、FDA(米国食品医薬品局)との約束ごとで決まっている。

 コードブレイクの日とはそれを初めて社内で共有する日なのだ。

 エーザイのアメリカの拠点はニュージャージー州のティーネックからウッドクリフ・レイクに移っていた。


 会議室で三人が待っていると、バイオスタティスティクスグループの長、マシュー・ラオが入ってきて、紙の報告書をくばった。

 大和としては、一刻も早く紙をめくって、結果を知りたいところだったが、それは禁じられていた。ラオの説明を聞きながら、ページをめくる必要がある。

 ラオはスライドを用いて説明をし、それにそって大和たちは報告書をめくる。

 報告書の10枚目をめくったところにそのグラフはドンと出ていた。

 治験の主要評価項目のPFSである。

 このグラフが目に飛び込んできたときに、大和はジムやアルトンと顔を見合わせた。

 二人の顔もほころんでいる。

 プラセボ群と圧倒的な差がついていたのだった。

 プラセボ群では、わずか3.6カ月で病勢が再び進行した。ところがレンバチニブを投与した群では、18.3カ月も病勢が進行せずにそのままの状態を保ったのだ。

 これは、たとえばソラフェニブの甲状腺がんのフェーズ3と比較すると、その数字のよさがよくわかる。ソラフェニブではプラセボ群に対して、平均で5カ月、病勢が進行を止めていたにすぎない。

 さらに驚くべきことは、奏効率だった。レンバチニブでは、64.8パーセントの患者でがんが縮小した。

 ソラフェニブでは12.2パーセントにすぎない。

 全生存期間では、プラセボを投与された患者の群が14.3カ月だったのに対して、レンバチニブを投与された群は22カ月。8カ月近く延命をしたことになる。ソラフェニブでは全生存期間で差はつかなかったのだ。

 この結果は数日をおいて、東京にいた鶴岡明彦、アメリカにいた船橋泰博にも伝わる。

 鶴岡は、PFSのグラフをみた時に、「ああ、これでようやく筑波のがん研究のグループの薬を市場に出すことができる」と思った。

 エーザイでがん研究が始まってから27年目のことだった。

 新入社員だった3人は、すでに50代に差しかかっていた。

ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン2015年2月15日号に掲載されたレンバチニブの甲状腺がんフェーズ3でのPFSのグラフ。レンバチニブを処方された人々はプラセボを処方された人々に比べて平均で15カ月近くも、病気が進行しなかったことになる。

シカゴでの発表 

 レンバチニブのフェーズ3の結果は、治験の責任医師であるマルティン・シュルンベルジェが、2014年6月にシカゴで開かれた臨床腫瘍学会で発表した。

 血管新生阻害剤で、めざましい結果を出したという噂をききつけ、会場は、満席、立ち見がでるほどだった。

 船橋は、混雑が予想されたので、内藤や執行役員になった大和の席とりを朝からしていた。

 シュルンベルジェが、PFSのグラフのスライドを会場のスクリーンに映し出すと、会場がどっとどよめいた。

 ざわめきのため、シュルンベルジェは一分間それが静まるのを待たなければならないほどだった。

 シュルンベルジェ自身もパリで最初にエーザイの担当者にこのグラフを見せられたとき、患者にとっても医者にとっても福音だと感動し、しばらく言葉を失ったのだ。

 この日、シュルンベルジェは発表のあと、会場にあったエーザイのブースで、内藤晴夫と1時間近く話しこんでいる。誰にとっても嬉しい日だった。

 夜には、内藤や大和、船橋も加わって、シカゴのファイアハウスレストランというかつて消防署の建物だったものをそのままレストランにした店で祝杯をあげた。

 2015年2月16日、レンバチニブは、甲状腺がんで米国FDA(食品医薬品局)の承認をうける。そのプレスリリースでエーザイは、製品名を「レンビマ」とすることを発表した。

免疫チェックポイント阻害剤 

 しかし、この時点でも、まだ社内の空気は、半信半疑だったのだ。

 その理由のひとつに、甲状腺がんというのは、患者が他のがんに比べて少ないということがあった。日本でも一年の患者数は1万8000人で乳がん9万4000人や胃がんの12万人にくらべると少ないことがわかる。しかし、レンバチニブは、PFSが長いから、1年以上薬を飲み続けることになる。つまり回数は多い、だから赤字にはならない、そう計算してフェーズ3に入ったのだが、たしかに甲状腺がんだけでは、年間の売上はたかがしれている。

「100億から200億はこれでいくだろうけど次の展開はどうするの?どうやって500億円の商品にしていくのか。なかなか大変だね」

 というのが大勢の意見だったのである。

 が、大和には秘策があった。

 免疫チェックポイント阻害剤との併用である。

 免疫チェックポイント阻害剤。日本の大学の基礎研究から生まれた新しいがんの薬。それは、免疫細胞の力をつよめるというそれまでのやりかたではなく、がん細胞が免疫細胞を回避するメカニズムを止めるという方向に180度発想を変えたことで生まれた薬だった。

 この薬と併用をすることで、効き目は増す。そうした理論的な研究を背景にして、船橋らが、すでにこの併用の動物実験を始めていたのだ。

つづく


証言者・主要参考文献

大和隆志、船橋泰博、鶴岡明彦、Martin Schlumberger

Lenvatinib versus Placebo in Radioiodine-Refractory Thyroid CancerMartin Schlumberger, M.D., Makoto Tahara, M.D., Ph.D., Lori J. Wirth, M.D., Bruce Robinson, M.D., Marcia S. Brose, M.D., Ph.D., Rossella Elisei, M.D., Mouhammed Amir Habra, M.D., Kate Newbold, M.D., Manisha H. Shah, M.D., Ana O. Hoff, M.D., Andrew G. Gianoukakis, M.D., Naomi Kiyota, M.D., Ph.D.,New England Journal of Medicine, February 12, 2015

Sorafenib in locally advanced or metastatic, radioactive iodine-refractory, differentiated thyroid cancer: a randomized, double-blind, phase 3 trialMarcia S Brose, Christopher M Nutting, Barbara Jarzab, Rossella Elisei, Salvatore Siena, Lars Bastholt, Christelle de la Fouchardiere, Furio Pacini, Ralf Paschke, Young KeeShong, Steven I Sherman, Johannes WA Smit, John Chung, Christian Kappeler, Carol Pena, István Molnár, Martin J Schlumberger, Lancet ,2014 Jul 26

Sorafenib in Advanced Hepatocellular Carcinoma, Josep M. Llovet, M.D., Sergio Ricci, M.D., Vincenzo Mazzaferro, M.D.,Philip Hilgard, M.D., Edward Gane, M.D., Jean-Frédéric Blanc, M.D.,Andre Cosme de Oliveira, M.D., Armando Santoro, M.D., Jean-Luc Raoul, M.D.,Alejandro Forner, M.D., Myron Schwartz, M.D., Camillo Porta, M.D.,Stefan Zeuzem, M.D., Luigi Bolondi, M.D., Tim F. Greten, M.D.,Peter R. Galle, M.D., Jean-François Seitz, M.D., Ivan Borbath, M.D.,Dieter Häussinger, M.D., Tom Giannaris, B.Sc., Minghua Shan, Ph.D.,Marius Moscovici, M.D., Dimitris Voliotis, M.D., and Jordi Bruix, M.D.,for the SHARP Investigators Study Group,The New England Journal of Medicine, July 24, 2008,