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知らないことを知る

人類は何も知らないのではないか。

知らないのであれば、考えてはいけない。

知らない状態で考えてもろくなことにならないからだ。

無知なのに神のように振る舞いたいのは、
博識になることであらゆる艱難辛苦を回避できると思っているからだ。でもそれは希望に過ぎない。
結果、この世は万能知という妄想に溢れる。

しかしここで悲しいお知らせがある。

人類が何も知らないなら、人類である私の考えも怪しくなる。本来ならここで絶句。

でも進める。ゴーストがそうささやくので。

知らないのに知っていると言い、
知っているつもりで考えを巡らし、
神のように振るまう。私も含めて、、、。

現代科学であっても同じだ。ある一部のプロセスにおいて因果関係を再現しているだけで、それが全体として何を意味しているかわかっていない。
再現性などと完全を装っているが、それは完全らしく見せるために意図的に世界を閉じているだけである。閉じた空間でエントロピーの増大を食い止めているが、見えないところにバックドアがあってそこから矛盾を垂れ流している。それをタブーとして意識から追い出せば、完全という名の妄想が出来上がる。

子供の頃やっていたヒーローごっこを思い出す。
それがどんな責任を伴い、どんな意味を持っているのかを知らない。

本来科学は自然の中にある真実に驚愕し、畏れ、ひれ伏すためにある。人間が何かをする余地はない。知恵は、自然に戻りおこぼれをうまく活用するために使われるべきだ。しかし、残念なことに自然と共存できるほど人類は無欲ではないし、世界人口も増えすぎてしまった。

しかし、状況はどうであれ、人類は直ちに知っているつもりを辞めなくてはならない。
ソクラテスが亡くなって2420年ほど経過した。
「無知の知」を克服するにはあと何年必要だろう。

どこまでが自然で、どこまでが科学なのか。その線引が重要だ。

ラインホルト・ニーバーの名言をdeeplによる直訳で紹介します。

「神よ、私に変えられないことを受け入れる平静をお与えください、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵を。」

恐怖によって知っているつもりになっている人間の似非科学を暴走させてはならない。





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