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料理は愛情

例えば、今日何を食べようかなと思った時

最初に頭に浮かんでくるのは、テレビCMや看板広告によって脳裏に刻印されたイメージだ

あるいは 中毒性のある、ガツンとした味覚体験によるイメージかも知れない

それらのイメージが商品名につながる時 、思考選択が自動的に完了する

これが僕らの考えるって事なんだ

その時にほうれん草と鶏肉を茹でたものは
出てこない 

なぜならその料理に映像のインパクトもないし 、
味覚の中毒性もない 

いつからか、食事は 映像と味覚だけのものに変わってしまった 

それは、メディア時代の到来と共に始まる

昔は食べることと、もっと向き合っていた 

健康であり、価格であり、感謝が重要な要素だった

しかし、今ではそれらのことは 奥の方に追いやられて 映像と味覚のインパクトで終わってしまう 

あとはピッと、デジタル キャッシュで払って、食べて、反応して終わり 

広告の映像と実際の料理がずれていることも
味覚が耐性によって鈍くなっていることも気がつかない 

そして、さらに誇大な映像とブーストされた中毒性のある味を永遠に求め続ける

僕らはいったい何をしているのだろう

料理は愛情だった、、はず
そうですよね結城先生

最後の砦だった家族が解体されて

コスパとか
タイパとか
個人の自由とか
その対価としての犠牲は少なくない


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