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旧約聖書『ヨブ記』8章 主催者の感想

8章は7章のヨブの発言を受けたシュアハの人、ビルダドの発言でした。ビルダドはヨブに対して「なぜそのように語るのか、あなたが不幸な時点で結論は出ている」というようなことを言っていました。

読書会では「神に対する罪とはなにか?」という話になりました。ビルダドも罪について語っています《もし、あなたの息子たちが彼(神?)に罪を犯したのであれば、彼が彼らの罪過の手に彼らを引き渡したはずである。》。今まで出てきたヨブ、エリファズ、ビルダドみんなヨブの罪について語っていましたが、具体的にヨブが何をしたから今ヨブ自身が不幸であるのか?を語った人は今までいませんでした。
皆さんのお話の中で、「神を忘れてしまうことが神に対する罪」という意見が出ました。この意見は、ぼくがヨブ記を読解する上での補助線となりました。今までヨブは自身が生まれてしまったことを呪う発言が多々ありました。ぼくは、生まれたことを否定することは、この自分の生を生み出した神を否定することに近いのかなと、敬虔な神の信者であることとヨブのこの発言は矛盾している思っていました。しかし、ヨブは神に語りかけることをやめていません。神に「なぜ?なぜ?」と問い続けます。この問いかけ続けることで神の信者であることを保ち続ける、神のやったことにマイナスのことをつきつけようとも、神を忘れていないことになります。
劇作家のジョージ・バーナード・ショーの言葉に「人間にとって最大の罪は、他者への憎しみではなく、他者への無関心である。つまり無関心こそ、非人道的な行為の源泉なのだ」というのがあります。神を忘れてしまうことというのは他者に対して無関心であることに近いとぼくは捉えました。ぼくの定義する「他者」とは、自分以外の他の人というだけでなく、物、自然、社会、経済、身体、自分の無意識など、自分の意識ではコントロールできないものを指します。「他者への無関心」とは自身ではコントロールできない領域をもコントロールできると思いこんでいることです。例えば愛する人を傷つけたとき、「なぜ思い通りにならないのか?」と思い、反省までいかないことがありますが、この考えは愛する人の他者性を考えないことで生まれたものです。単純に言えば自己中心的な考えは他者へ無関心から生まれるのでしょう。人は他者を傷つけてしまう、それはどうしても避けようとしても避けられない、そこから反省をするとは、他者への関心が必要です。ここから「神への信仰」は「他者への関心」に近いと考えました。

また今回読んだ箇所で印象的なのは、ビルダドが歴史、伝統に対して言及しているところです《ここで先の世代に問いただすがよい、彼らの父祖たちが究めたところを検証したまえ。われわれは昨日の生まれで、知っていることなどない。》。この発言は、ぼくら自身はちっぽけな存在で歴史の方が偉大で価値があると言っています。またその直後に「家」についての発言があります《彼(神を忘れたもの、不敬な輩?)がその家に寄りかかれば、それは持ち堪えず、彼がそれを補強しても、それは存続できない》。ビルダドは神への信仰(宗教)と歴史、伝統が密接に関連していると考えているようです。そして歴史、伝統の上にぼくらが寄りかかっている家がある、もし歴史、伝統という土台をなくしてしまったらどんなに素敵で理想的な家であっても、崩れ去ってしまう、ビルダドがそう考えているとぼくは解釈しました。
この考えからビルダドは保守的な思想の持ち主なのかなと思いました。ここで言っている家とは、実際の家もそうですが、ぼくたちが信頼していて安心し、寄りかかることができる場所だと解釈しました。この場所は歴史、伝統がないと吹き飛んでしまう。これは非常によくわかる意見でした。人は歴史を相対化しながらも、常に歴史を欲望してしまうものです。
ビルダドのこの保守的な考え方は正しいと思います。しかし、不幸の渦中にあるヨブにかける言葉としてよいのか疑問です。歴史というのは、人が安住する家を構築しますが、時に分断を生んでしまいます。ヨブはまっすぐに神を信仰していました。第一章で《(ヨブの)息子たちを呼び、彼らを聖別し、その朝は早く起きて彼らのすべての数の全焼の供犠をささげた。ヨブはもしかすると息子たちは罪を犯し、心の中で神を讃えたかもしれない、と思ったからである。》とあるように、信心のもと伝統を重んじている行動をしています。なのに、不幸になってしまった。ヨブは皮膚病になったことにより社会から切断され、歴史からも切断されたのでしょう。この地点からヨブ記は始まっています。ヨブ記を読む上で切断された位置に何度も何度も立ち返りながら、一歩一歩進んでいくことが大事だと思います。


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