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それでも『アデル、ブルーは熱い色』を好きだと言うために

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I, I follow, I follow you
Deep sea baby, I follow you
I, I follow, I follow you
Dark doom honey, I follow you


Lykke Liの挿入歌“I follow Rivers“のメロディやハングドラムの路上パフォーマンスの独特の響きが今になっても耳に残り続ける。2013年カンヌ映画祭において史上初の主演女優二人にもパルム・ドールが贈られた『アデル、ブルーは熱い色』(監督:アブデラティフ・ケシシュ)は2014年4月に日本でも公開された。

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最初に音楽について触れてみたが、この映画がセンセーショナルな注目を集めたのは作中の約10分間にも及ぶ、且つきわめて写実的な、女優二人のセックスシーンによるところが大きかった。私自身、公開日に劇場に足を運び、ここまで際どくセックスを撮るのか、しかもめちゃくちゃ長い、終わらない、やっと終わった…と思ってもまたエマの実家でセックス、そしてアデルの実家でセックス、まだやるのかよセックス! と、主にこの映画の性描写が強く目に残ったことは否定できない。



それでも私はこの映画の美しさやかけがえのなさは決してこのセックスシーンに限定されるものではないと断言するし、公開から6年が経とうとしている今でもあっても、私のこの映画への想いは消えることがない。『アデル、ブルーは熱い色』という映画は、誰に何を言われても、私の生涯の一本だ。


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しかし、この映画を観るにあたって、やはり−−特にセックスシーンの撮影において−−心に留めておかなくてはならないことも同時に存在するし、主演女優二人がもう二度とケシシュ監督とは仕事したくないと言っていることも忘れてはならない。端を発すのはセックスシーンの撮影ではあるものの、それだけでなく映画や演劇において、俳優はどこまでを引き受けなければならないのかという問題は常に慎重に考え続けられなくてはならない。

私はこの記事で、『アデル、ブルーは熱い色』(以下『アデル』と表記)を足がかりに、今、根深く存在する映画、演劇領域のハラスメントやセンシティヴな問題について、自らの経験も踏まえ書いてみたいと思う。自分の経験も基にするのは内部告発のようでもあり気が引けるものの、これを書くことは私がかつて所属していた劇団やその日々を憎んでいるということでは決してない。決して。



『アデル、ブルーは熱い色』の過酷な撮影

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2013年カンヌ映画祭のあと、『アデル』の主演女優であるアデル・エクザルコプロスとレア・セドゥが揃って本作の撮影方法に対する不満を口にしている。主な不満はやはりセックスシーンの撮影にあり、二人はあの10分間のセックスシーンの撮影が10日間にも及び、その撮影方法も「屈辱的だった」と語る。


監督がすべての権力を握っている。役者は、コントラクトにサインしたら最後。罠にかかったようなもの。監督の指示が絶対で、すべてを捧げなければいけない。(レア・セドゥ)
私は、若かったし役者としての経験が浅かった。撮影がはじまってから、自分が監督の求めるレベルまで役にのめり込む心の準備ができていなかったことに気づいた。ただ、すべてを捧げるといっても、大抵の監督は役者にあそこまで求めないだろうし、もっと役者を尊重すると思う。(アデル・エクザルコプロス)



また、アデルの浮気がエマにバレて大喧嘩になるシーンの撮影についても二人は非難し、エクザルコプロスは「ひどい経験だった。彼女(セドゥ)が私を何度もたたいたの。監督は『たたけ!もっとたたけ!』と叫んでた」と語る。
また、真偽は不明だが、この喧嘩のシーンでセドゥがエクザルコプロスをガラスのドアに押し付けた際にエクザルコプロスはガラスで怪我をしたそうだ。しかし監督は撮影を中断しなかったという。



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時々精神的におかしくなったわ。監督は私たちがなりふり構わず演技することを求めたけど、そうするのは大変だった。(アデル・エクザルコプロス)



セックスにしろ暴力にしろ、作品を一つ作るにはどうしても俳優に過度な負担を強いる行為が発生してしまう。側から見て明らかにやりすぎな監督の指示が飛んだとしても、「いい作品にするため」「できないと思われたくないため」に生真面目な俳優はそれにどうにか応えようとする場面もあるだろう。



しかし、俳優はどこまでを引き受けなければならないのか、映画であれ演劇であれその線引きは難しい。そして、限られた時間の中で良い作品を作ろうとするときには俳優同士も急速に関係性の密度を深めなくてはならない。誰とでもすぐ打ち解けられる人、仲良くなるまでに時間がかかる人、俳優といっても多様な人がいるだろう。しかし本来の気質がどうであれ、求められる関係性の密度へ到達させるまでの速度が許容範囲を上回れば誰しもがそこに強いストレスを感じる。



セックスが「カンフル剤」のように使われてしまうこと

映画の撮影方法として、俳優にできるだけ早く打ち解けてもらうためにあえて露出の多いシーンから撮るということはままあるようだ。

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『タイタニック』(1997年、ジェームズ・キャメロン監督)では絵描きのジャック(レオナルド・ディカプリオ)の目の前でローズ(ケイト・ウィンスレット)が全裸になるシーンから撮影を始められた。ディカプリオは緊張して「カウチ」を「ベッド」と言い間違えるもそのテイクがそのまま採用され、その後ウィンスレットともすぐ打ち解けることができたという。この二人は『レヴォリューショナリー・ロード』で再び共演を果たし、『タイタニック』から20年以上経った今でも親友同士だと言う。


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しかし、これは成功例の一つにすぎず、全俳優にとってうまくいく方法かどうかは誰も証明できない。


『アデル、ブルーは熱い色』の撮影順序がどうであったかは私は知らない。けれど前述のように10日間にも及ぶセックスシーンの撮影について二人が「屈辱的だった」と語っている通り、セックスや露出の多いシーンの撮影が必ずしも俳優同士の心を近づけるとは限らない。場合によっては俳優を深く傷つけ、その後の撮影や、さらに言えば彼女(彼)の俳優人生にも影を落とすかもしれないことは十分に考えられる。

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セックスは「仲良くなるための近道」では決してない。

私がそう思うのは、自分の経験による。かつて大学時代に在籍していた学生劇団で、役の一人と恋愛関係になる女性を演じることになった私は、自分の力量不足と、相手役の同期の人柄をよく掴みきれていなかったことで何度稽古をしてもうまくいかず、業を煮やしたある先輩に「セックスしろ」と言われたことがある。舞台上で実際に服を脱ぐとか擬似的なセックスに及ぶ作品ではなかったものの、先輩は手っ取り早く打ち解けるための手段として「セックスしろ」と私に言ってのけたのだ。

私は結局最後まで彼とセックスすることはなかった。けれどあのとき、先輩に執拗にセックスを強要され続けたことは今でも思い出すたび私の心のどこかが死ぬ思いがする。今でもあの稽古の日々を思い出すたび暗澹たる気持ちになる。


これは作中のセックスを演じる話としては脱線しているが、時に「プロ根性」や「体当たり」という言葉で美談として語られることの多いセックスシーンがいかに俳優に大きなものを強いているかを表現するために書いておく。

この時の記憶はこちらの記事で散文的に書いているので、『アデル』の話とはあまり関係がないけれど、こちらもお読みいただければ当時の私の抑うつがわかってもらえるかと思う。

セックスは、「仲良くなるための近道」では決してないのだ。



親密さの強要はハラスメントを引き起こす

さて、ここまで映画でのセックスシーンの撮影方法や、演劇においての俳優同士のセックスの強要について書いてきたが、これは場合によってはセクシャル・ハラスメントになるのではないかと思う人が出てくることだろう。

レア・セドゥが『アデル』について「監督がすべての権力を握っている。役者は、コントラクトにサインしたら最後」と語るように、映画製作は構造上、監督に権力が集中しやすく、俳優は監督に求められれば何でも応えなくてはならないものだという精神的な土壌がある。



演劇領域でもほぼ同じことが起きている。劇作家・演出家である平田オリザ氏は(演劇界では)「ありとあらゆるハラスメントが起こる」と語る。

権力構造が非常に強い業界なので、セクハラ、パワハラ、共に起きやすい環境だと思います。
具体的に言えば、俳優志望の人も含め、若い俳優がすごく多いなか、演出家やプロデューサーにキャスティングの権限が集中しているという構造がある。そのうえ、演技は評価の基準も曖昧ですから、権力を握っている側が裁量をちらつかせることも容易です。

加えて学生劇団のような小規模かつ全て若手が取り仕切るような劇団では個々の力量に左右されることも大きく、環境もそれほど整っているとも限らないので根性論や精神論のゴリ押しも目立ってくる。(私はまさにその渦中にいたのだと思う)


演劇界のハラスメントについては最近では劇団・地点のハラスメント問題が記憶に新しい。私もtwitterで経緯を追っていたが、フリーユニオン側が公開してくる地点演出家の発言等を見ていると、そんな学生みたいなこと言ってたのかよお前幾つだよと呆れることも多々あった。
地点のハラスメント問題は一応の解決を見ているが、これは氷山の一角に過ぎないのだと強く感じる。たまたま『地点』がある程度の知名度を獲得していた劇団であったからこそ「見つかった」だけで、今この時も同じようなハラスメントが繰り広げられている劇団は数えきれずあるのだと思う。




ハラスメント問題と常に隣り合わせにある映画、演劇業界だが、平田オリザ氏は自らが主宰する劇団・青年団でハラスメント対策として独自のルールを作り、運営している。


たとえば、先輩が後輩を飲みに誘うのは禁止です。特に個別は絶対に禁止です。これは異性であろうと同性であろうとダメ。
劇団では、少し冗談交じりに「稽古ハラスメント」と呼んでいるんですけど、全体の稽古が終わったあとの居残り稽古に、先輩が後輩を強制的に誘うのも禁止しています。
全体稽古の後、俳優だけが集まってセリフ合わせをすることがあります。俳優にとって稽古というのはとても大事なもので、この居残り稽古も基本的にはみんなやりたがるんですけど、ただ状況によっては、「後輩はバイトに行かなくてはならないのに、先輩から稽古に誘われたので断れない」ということも起きるかもしれない。だから、うちでは基本的に禁止です。


他にも俳優の子育て支援として、舞台巡業中に俳優が妊娠してもすぐに代役を立てられる仕組みを作っていたり、オフィスに子供を連れてくることも容認されている。ハラスメントの防止には「リーダーの役割が非常に大きい」と平田氏は語り、常に変化を追う姿勢の重要性を強調する。


ハラスメントに対する意識は日々変わっていきます。大切なのはその変化に合わせて感覚をアップデートしていくことです。




また映画、テレビ界においても欧米では「インティマシー・コーディネーター」を配置することの重要性が広まってきている。

この文章を書こうと思ったのは、twitterで水原希子氏がこの職種のことを紹介し、『アデル』にも彼らがいてくれていたなら、と強く思ったからだ。


インティマシーとは「親密な、密接な」という意味で、映画や舞台の、いわゆるラブシーンと呼ばれる役者同士の身体の接触があるシーンを安全なものにするために存在する職種である。


インティマシー・コーディネーターの役割は大きく分けて3つあり、「役者の弁護」「センシティヴなシーンを演じる役者への動きの指導とケア」「大学の演劇科や劇団での指導やワークショップの開催」がある。
彼らへのニーズが高まってきているのも#MeToo運動のひとつと考えることができる。今まで監督の顔色を伺い、「(断れば)降板させられるかもしれない」という恐怖と戦いながら時には無理な要求にも応えてきた俳優にとって、彼らが現場に立ち会ってくれることの安心感は計り知れないだろう。



映画も演劇も、演技という面においてはどこまでがアートで、どこからがハラスメントになるのか線引きが難しい。そこにインティマシー・コーディネーターは第三者として立会い、監督と俳優、互いの許容範囲を明確にして議論を促す。

「もっとこうして」の指示に疑問があれば、役者は「なぜ、そうする必要があるのか」と問う。プロデューサーがその問いに応じなければ、そのシーンの撮影はおこなわれない、ということもあるだろうし、役者の「ここまではやるが、それ以上は嫌」という交渉に、応じる必要も出てくるだろう。
アートってのは、演技ってのは「そういうものなんだよ」。どういうものなのかを明確にしない発言が、まかり通らなくなる。なぜか。それは、「そういうものなんだから(あなたが我慢するべき)」という、権力の不当な行使や不均衡な力関係を肯定する発言だから、ではないか。 健全な職場であれば、また、対等な人間関係であれば、こういった問いに答えるのは当然のことに思える。ショービズ界におけるインティマシー・コーディネーターへのニーズは、この21世紀の人権の時代の、必然ではないだろうか。


改めて思う、7年前の『アデル』撮影現場にも、彼らがいてくれたなら。




アデル、それでも逢えてよかった

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『アデル』について、レア・セドゥはテレビ雑誌「Telerama」のインタビューでこのように語っている。


この映画を公開すべきじゃないと思う。あまりに汚れてしまったわ。パルムドール受賞は、ほんの一瞬の幸せなひと時で、その後は屈辱を感じ、名誉を傷つけられた。自分が否定されたような気もした。呪われた人生を生きているようなものよ。



『アデル』は主演女優から愛されず、女優二人にとっても多くの代償を払い傷つけられた作品で、それがセドゥのこの発言に表れている。

ということは私たちがこの、公開された『アデル、ブルーは熱い色』を観ることは、この映画について語ることは、主演女優のエクザルコプロスとセドゥを傷つけてしまうことになるのかもしれない。この映画によって、二人は今でも傷つき続けているのかもしれない。



けれど、それでも私は言いたいのだ。
これは、私にとって生涯の一本であると。


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時が経ち、主演女優が当時の撮影現場の様子とそれに対する不満を明らかにした今、『アデル』を、公開時のまっさらな気持ちで観返すことはできない。このシーンにも、あのシーンにも、彼女たちの苦悩があり、どれもが彼女たちの犠牲の上に成り立ったシーンであることを思うと、かつてこの映画を手放しに絶賛し、考えなしに「大好き」と言い散らかしていた自分のことを本当に恥ずかしく思う。

けれど、映画館で3回この映画を観て、DVDも購入して自宅でも何度も再生して、やっぱりこの作品は、どうしても忘れられないと思うのだ。


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『アデル、ブルーは熱い色』は、当時の私の支えだった。2014年は私が社会人になった年であり、その4月上旬に公開されたこの作品は、これを映画館で観るために生きようと私に思わせてくれた。環境が変わり、学生から社会人へと立場が変わり、それまでの私が全て消え去ってしまうのではないかという恐怖に怯えていた私に、この映画は「あなたはあなただ」と言ってくれた。これからもミニシアターへ足を運ぶ自分であっていいのだと私に言ってくれた。

同じ時期に、直前の冬に別れていた彼氏と再会する機会があり、きちんと関係を清算し、泣き崩れ、後輩の女の子にも電話をかけて一緒にいてもらい、ようやく落ち着いて、梅田へ引き返してレイトショーの『アデル』に駆け込み、エマに別れを告げたアデルと一緒になって泣いた。映画館を出てからも泣き続けて、別の友達にも電話をかけて、「あんた頭いいんだからこれからも大丈夫だよ」とちょっと的外れな慰めを受けて、終電で帰った。


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『アデル』にまつわる自分のことを、今でも全て覚えているような気がする。だってあの時、私を何よりも支えたのはスクリーンの中で笑って泣いた、生きたアデルの姿だったのだから。彼女の姿を思い出すことは、あの時の私を思い出すことと、ほとんど同じなのだ。


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アデルが私を助けてくれた。この気持ちは今でも、これからも変わらない。
2020年になった。映画も演劇も、日々アップデートされている。『アデル』で彼女たちが支払った代償は、もう、別の誰かが同じだけ支払うことはなくなってきているのだと信じたい。
少しずつでも、日々は変わっていっている。私はそれを追いかける。様々な変化を嬉しく思う。それが、これからも『アデル、ブルーは熱い色』を好きだと言い続けるために必要なことなんだと、私は思っている。


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読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。