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花にもなれる、何にでもなれる

誕生日に書いたnoteで映画『RUSH プライドと友情』について書いたところ、友人から「今ちょうど塚口サンサン劇場で上映されてるよ」と全く予想もしていなかった情報をもらい、こんな偶然があるのかといたく驚き、いつぶりかもわからない塚口へ行ってきた。南改札か北改札かそれすらも覚えておらず、しばらく塚口駅の中を右往左往し、けれど駅を出てしまえば30秒で着く塚口サンサン劇場。基本的に音が大きい映画館。


6年ぶりに劇場鑑賞する『RUSH』を30歳になった自分はどう感じるか、半ば実験のつもりで観た。
ハンス・ジマーが得意とする小刻みな低音の上にゆったりと流れる壮大なメロディライン、それも掻き消してしまう勢いの、心臓の裏を突き上げてくるような車のエンジン音、多言語で右へ左へ飛び交う実況そして歓声、まさに音の洪水のような映画で、やっぱりこれは映画館で流して初めてその真価を輝かせる映画だと実感した。

そして手放しに感動し、手放しに号泣し、手放しに褒められたかと言えば、抱く感情としてはおよそ6年前と種類は変わらず、「総量」が抑えられたように感じた。心に迫るシーン、目の奥をぎゅっと押してくるシーンは同じ、エンドに流れる当時の映像とラウダがハントに対して語る「私が唯一嫉妬した男だ」という言葉にはやっぱり泣いてしまった。それは純粋に、もう存在しないかつての友人、それも、特に自分に影響を及ぼした友人に手向ける言葉であって、ここに性差の話を持ち出すのは無意味だと感じる。そして、華々しいのは男性たちばかりであるものの、ジェームス・ハントとニキ・ラウダが華々しいのであって、それ以外の人物は男性も女性も関係なく背後に下がっているので、過度に男性映画だと感じることもあまりなかった。


けれど女性の在り方についてはやはり少し考えた。
ジェームス・ハントの周囲には常に女性がいるけれど、この映画で割としっかりめに登場するのはハントとラウダそれぞれの妻(スージーとマルレーヌ)であり、彼女たちが何をしているかと言えば、酒に溺れて落ち込んでいる夫を励ましたり、瀕死の火傷を負ってもなおレースの場に帰ろうとする夫に何も言わずその意に従おうとする。つまりは夫に対して自分が主体的に何かを働きかけることはしない、「サポート役」だった。彼女たちはその枠から一歩踏み出すことはできなかった。

どれだけジェームス・ハントとニキ・ラウダの物語なのだと言っても結局二人とも男性であって、F1レースの選手となるのも男性だ。このフィールドでは、女性はせいぜいレースクイーンとして場を華やがせるか、観客の一人として高い声を贈るかしかすることがない。


じゃあそれが「いけない」のかと言えば、困ってしまう。「いけない」と言ってしまえば男性選手のスポーツや競技を題材にした映画が丸ごと「いけない」ことになってしまうし、これが深化すれば男性主人公の世界が全て否定されてしまうことになる。(だからこれは余談になるが『ターミネーター:ニュー・フェイト』は個人的には最悪の方向に舵を切りやがってと思った。「母」としてではなく「女性」として、とにかく女性を男性と同等、それ以上にも強く戦える存在として、そう描きたいというその気持ちはわかるがそもそも『ターミネーター』という物語はサラ・コナーももちろんだがジョン・コナーの存在なくしては成立しないのだ。『ターミネーター2』(1991)の結末をあのようにしたからには、この物語はジョン・コナーの人生に対して責任がある。それをあんなに軽々しく放棄されては怒りを禁じ得ない。『ニュー・フェイト』が正当な続編というのなら私はもうこのシリーズは追いかけないし記憶もターミネーター2で止めておくことにする。どれほどマッケンジー・グレイスが美しくかっこよくてもダメなものはダメだ)


旧作の続編において女性の比重を大きく変えることにはリスクが伴う。すでに盤石な物語の基盤にヒビを入れるも同然の行為だからだ。けれどこの行為に、例えば『ニュー・フェイト』への私の反応のように怒り狂う人が多いとするならそれだけ旧作の世界における男性中心主義、観客の中にある男性中心主義が根深いという証左になる。そして、映画の物語は現実の社会構造を反映するので今私が生きている社会もまた男性が主軸に回っていると逆に映画が示している。映画と社会は示し、示されている。



女性が背負って立てる物語は、今までそもそも存在しなかったと考えてみても言い過ぎではないのかもしれない。なぜなら女性は長く「家にいる存在」「夫と息子を支える存在」「選択肢がない存在」だったからだ。本当は彼女たちにもあらゆることが起きている。けれどそれらは、彼女たちと一緒に家の中に閉じ込められてしまう。そして外に出る存在であり、より多くの選択肢を与えられた男性が必然的に「目立ち」、物語もそこに生まれる。そして生まれた物語は当然男性の目から見た男性のものであるので、女性が彼らを支える役にしかならないのは当たり前だ。そういう風にしか見られていないのだから。女性たちが主体の人生は、「物語」になる前で膠着するか、男性に解体されてしまう。


だから、『ニュー・フェイト』は私は許せなかったとしても、女性をとにかく光の当たる方向へ、女性自身も自ら光の方へ、動いていくことが必要なのだろう。何が何でも世界を救わなくてはならない時にその主役は男性か女性かで揉めるのは普通に考えておかしな話だ。そんな場合じゃないだろう。

女性の物語は、存在しなかったのなら「作って」いかなくてはならない。男性と恋愛関係にならずとも胸を張って世界を救う女性を。男性抜きで世界を引っ掻き回す女性を。閉じ込められていたのなら家中の扉を開けてひっくり返さなければならない。天才的な頭脳でかつてのNASAを支えた女性たちを、参政権獲得のために命をかけた女性たちを。社内のハラスメントに声を上げた女性たちを。


女性は男性の存在がなくても一個人として、生きている存在だ。本来そうだ。それが現実の社会構造と、それを鏡写しにした物語によっておかしな認識に嵌め込まれている。別に私たちは男性から選ばれないと死ぬ病気に罹っているわけではないし、結婚しないと死ぬわけでもないし、男性を支えない女性なんてクズだと言われる筋合いもないし、男性より目立って白い目で見られる筋合いもないし、男性より能力が高くて打たれる杭でもないし、女性は必ずしも男性と番いではないし、男性の比較対象でもないし、一個体として、女性なのである。そもそも。


男性同士の物語、男性の友情を描いた物語、男性社会の物語、それらが「いけない」というわけじゃない。ただ、今世界に存在しているその男性たちの物語と同じだけ、女性たちの物語の数を増やしていくべきなのだ。女性の物語を、女性と女性の物語を、男性がいなくても楽しくやっていける女性たちの物語を、もちろん、男性と共に楽しくやっていく女性たちの物語も。

思うに女性に必要なのはまず「数」だ。数を増やし、あらゆるパターンを取り、あらゆる歴史を掘り返し、自らに提示すること。これが全てではないと思えるようになること。全てだと思っていたことは、全然全てではなかったことに気づくこと。それを、数を増やして、私たちへ、散りばめてほしい。数の多さは、それ自体がエンパワメントだと私は思う。反発されても、男性から(時には女性からも)ディスられても、諦めずに、生み出していくこと。そうして多様な形の「描かれ方」を手に入れていくのだ。


場を彩る存在だった。花だった。もちろん、私たちは花になれるし花となることを選んでいい。けれど花になりたくなくてもいい。
何にでもなれるのだ、望むなら。世界を救わなくてはならない一大事に、男か女かで揉めている時間はない。私にやれると思うなら、誰より早く手を上げたらいい。どうせみんな急いでいるんだから。



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