見出し画像

でも正直、寝てんじゃねえ。-『生きてるだけで、愛。』

常につらい人は一定数いて、その中にいる自分は特別でもないし、そうでない人たちもまたある種の切実さを持って生きている。
生きづらいっていうことが、声高に言われるのはなにかが違うという気は、やっぱりします。だって「生きづらい」のは、違う人同士が同じ世界で生きるうえで、当たり前のことだから。今さらなにを言ってんの、って。


大好きなふたりの作家が語っている。前者は金原ひとみ、後者は本谷有希子まさにその人。
どちらのインタビュー記事も大好きで、でもこのふたりは同じ視点でものを見ていない気がして、でも彼女ふたりからこんな言葉が出てきたことが何故かとても嬉しくて、本当にその通りだと思って。


『生きてるだけで、愛。』
最初に断るのも変だけど、わたしは寧子みたいな人にはなりたくない。どれだけ鮮烈な世界が彼女の目に見えていたとしても、映画の中でどれだけ彼女が肯定され祝福されていたとしても、それは、これが「映画」だからだと思っている。映画だから、フィクションだから、究極、自分の人生には関係ない人だから、わたしは寧子を許容できているのだと思う。
映画では迷惑でかわいそうな悪役として出てきた安堂さんの気持ちの方がずっとわかる。わたしは毎日朝から晩まで働いて、頑張って生きているつもりなのに彼氏がいなくて、そのうえ元彼がこんな怠惰の塊みたいな女と3年も付き合っているだなんて、ハ? と、でもわたしは、そうよねと思う。あなたの気持ち、その通りですよねと。
だけどわたしは安堂さんみたいな人にもなりたくないのだ。だって彼女も傍から見れば寧子とは種類が違うだけでただの滑稽の塊だからだ。津奈木があなたと別れられないのはあなたに経済力がないから、ということはあなたに自立できるだけのお金が出来たら津奈木は心置きなく別れられるでしょう、いやいや。津奈木は自分を選ぶはずっていうその妄想に近い自信はどこからくるの。その並外れた自信のおかげで彼女は道化に成り下がってしまっている。
働く独身女性がこんなふうに描かれてしまうのはつらい。けど、彼女も寧子と同じ、フィクションだもの。寧子とは真逆のベクトルで、フィクションだからわたしは安堂さんを許容できる。
そのなんて身勝手なことだろう、わたしという人間もまた。

寧子みたいな人になりたくない。こんな人とは仲良くしたくない。でも、わたしが嫌いだと思う人もまたその人の世界にはつらいことがあって、自分の状況を良しとしてなくて、もがいていて、切実に生きようとしている。それを、否定してはならない。共感はできなくても、理解はしたい。
それに寧子のような気持ちが、精神状態が、ままならなさが、わたしに1ミリもないとは言えない。
だから寧子に向けて言いたい気持ちは全部わたしにはね返ってくるのだ。

「生きづらい」なんて、言うだけなら勝手に言うとけと思う。
人に自分を見透かされている気がする、人の善意に触れると怖くなって逃げ出したくなる、でもそれは、究極のところ自分でどうにかしていくものではないの。さみしいけど分かってほしいけど上手くいかないもう全部だめだと思うだから逃げちゃったでもさみしい、は、究極、他人にはどうすることもできないのではないの。だから無限に繰り返してしまうのではないの。
孤独と完全に仲良くできるような人、生まれてから死ぬまでずっとひとりがいいと心底思える人はどこにもいない。さみしい、人と関わりたい、でも傷つきたくない、さみしい、誰かと繋がっていたい、でも踏み出すのがこわい。そういう橋を、生涯かけてでも渡っていくものではないの。
少なくともわたしは、それこそがわたしの生涯だと思う。この橋こそがわたしの生涯。
「生きづらい」ときはある。「生きづらい」と口に出すこともある。でも「生きづらい」人なんて周り見渡せば山ほどいる。あの人もこの人も何かがいつもつらいのだ。わたしは何も特別ではない。
だから寝てんじゃねえと思うんだよ。眠気が抗いがたいのも寝るの最高だってことも知ってるけど、でも正直、やっぱり、寝てんじゃねえと思うんだよ。寧子。

津奈木役に菅田将暉が来るというのも嬉しかったけど少し意外だった。というのも、原作を読む限りでは津奈木の外見に具体的なイメージを見いだせなくて、のっぺりした人という印象しかなかったからだ。
だけど映画では津奈木の日々にも焦点が当てられていて、津奈木には津奈木でしんどいことや思うことがたくさんあって(長時間労働、自分の書くゴシップ記事の内容のひどさ等々)そのしんどさに対してほぼ感覚的にワッと行動を起こせる映画オリジナルの場面には、たしかに彼の力が必要だったんだなと観終わって納得した。
逆に言えば、寧子は原作でも映画でも「もっと津奈木はわたしに振り回されてほしい」て言うけど、寧子の一人称で語られる原作の津奈木のイメージがあんなにのっぺりしていたのは、あなただって津奈木のことちゃんと見ようとして来なかったからではないのと思ってしまった。そういうとこやぞ寧子!

と、わたしは基本的に寧子のこと嫌いな方の人間だけど、寧子演じる趣里には最初から最後まで圧倒されてしまった。
中途半端に「わかるよ」なんて声をかけるのも憚られるほどの気迫がこもった寧子だった。
原作の独特にコミカルな文章の空気も、振れ幅の大きな感情も、鮮烈に映る世界も、彼女がすべて引き受けていた。あの彩度の高い世界は本当に趣里の目から見てそうだったんだろうと思わせるものがあった。
走るシーンの美しさ。津奈木が3年も寧子と一緒にいた理由、またきれいなものが見たかったから。あの青いスカートと潔く抉れたアキレス腱とローカットコンバースを見てしまったなら、しょうがないよなあと思った。かつてバレリーナを志した人の、余計なものが削ぎ落とされた美しい足だった。
屋上のシーン。街の光に照らされた彼女の涙。雫の輪郭がくっきり見えるほどの大きな涙。それが彼女の頬にあるということの、美しさ。
「いいなあ。津奈木はわたしと別れられて、いいなあ」
この叫びが全てなのだと思う。結局この人は自分のことでいっぱいいっぱいなんだ、それでも、というか、この人はそんな自分を他人にわかってもらいたいんだ、2時間わたしが見ていたのはただこれだけだったのだと気づいた。
趣里は芯から寧子だった。長い髪も、体の細さも、怒り方も、走り方も。


本谷有希子の書く人間は、ピンポイントに「こんな人間になりたくない」を刺してくる。
だけど「こんな人間になりたくない」のは、そこに何らかの後ろめたさがあるからだ。
こんな人間、バカみたい。傍から見たらほんと滑稽。なんでこんなに自意識過剰なんだろ、バカみたい。どこ見てるんだろう。何見てるんだろう。何もかも、バカじゃないの。
あんたのことだよ。ねえ、あんた。
言いながらわたしは彼らと自分の間によく似たものを見出している。それはわたしにとっても、できれば誰にも見咎められたくない、誰にも指をさされたくない恥の部分なのだ。
恥の部分なんて書きたくない。けれど本谷有希子は致死量を軽く超える毒を盛るくせに、軽やかに、コミカルに表現してみせる。何を思ってこんな人間を書くのだろう、どんな心臓でいればこんな人間が書けるのだろう。
わたしが寧子にムカつくのも、かと思えば共感してしまうのも、結局は本谷有希子の掌の上で踊らされているだけのような気がしてならない。だけどその感覚をわたしは本谷有希子に求めている。
学生時代に『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』にバットで殴られたような衝撃を受けてからはや数年、これからも彼女の作品を読みたいし、映画化されるなら観たいと思う。
趣里が全身で体現した『生きてるだけで、愛。』のような、観終わって疲れるほどの映画化がこれからもあればいいと思う。

ぜったい、個人的2018年の邦画1位でした。


参考インタビュー
https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/hitomi-kanehara
https://sheishere.jp/interview/201810-yukikomotoya/4/


この記事が参加している募集

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。