見出し画像

[闘病記] 僕は君を守れるか 第3章(前編) 白血病克服から13年後晩期障害

仰々しい酸素ボンベが狭い玄関に運ばれた。そこから伸びるシリコンのチューブは二階 娘の室まで伸びている。美月(娘)は今日から24時間の在宅酸素療法となった。

4歳4ヶ月に悪性リンパ腫を発症。
化学療法で完全寛解を保つも、4年後に骨髄から再発。
病名も急性リンパ性白血病となって、再びの闘病生活。
それでも、兄妹間の同種骨髄移植が功を奏し、ついに白血病を克服。

3年、5年と、時が過ぎ、成長障害には悩みながらも、再発の危惧は過去の記憶となっていた。
しかし、美月の体には、いわゆる晩期障害として、元疾患と引き換えに、大きな代償が刻み込まれていたのだ。


美月は今年、成人の日を迎えた。
中学、高校の制服と、毎度のことではあるが、身体に合うサイズが無く、振袖姿は七五三?とまでは言わないが、その悩みは贅沢と言うか禁句だ。
就職も障害者枠で採用となり、4月からは社会人となっていた。

ところが、この頃から肺の機能が目立って落ちてきた。晩期障害の一つだった慢性間質性肺炎の影響から、肺線維症を起こしていたのだ。
肺線維症とは、本来なら紙風船の様に柔軟に伸縮を繰り返す肺胞が、次第に硬く脆くなってしまう症状。その結果、体内に必要な量の酸素を取り込めなくなってしまい、ちょっとした運動で息切れを起こす。同時にそれを補おうとして心臓にも慢性的な負担がかかる。
その為の在宅酸素療法が始まったのだ。


「だましだまし、、、」という言い方があるが、もしかしたらここ数年の僕は、
美月の晩期障害とそんな風にしか向き合ってこなかったのかもしれない。
骨髄移植後の13年間、美月と妻は月に一度の定期検診で主治医のH先生と会っているわけだし、晩期障害の一つ成長障害となると女性としてのナーバスな問題も有って男親としては関わりにくい。
それを言い訳にして、美月の事は妻に任せっきりになっていた。

しかし、今日、目の前に置かれた仰々しい酸素ボンベは、もはや目を逸らせられる状況ではなかった。

その日の夜、僕はネットで肺線維症と特に造血幹細胞移植後の合併症の情報を探した。
その結果、移植後に肺線維症になられた方の症例報告がヒットした。予後は良くなかった。と言うか、肺線維症自体がそもそも致命的な症状で、原因も定かでなければ、その治療法も無い。
酸素療法は対処療法でしかなく、良くて現状維持、一旦固くなってしまった肺胞が、元に戻る事は無いらしい。

翌日、僕は妻にその事を話した。妻としては現状の説明を受けてはいたものの、具体的な予後については聞かされていなかったと応えた。
僕はその事を責めた。
今、娘の肺に起きている事はもちろん、これから先その症状がどの様に変化していくのか?そして、それがもし命に関わる事ならば残された時間はどのくらいなのか?
僕らはちゃんとそれを知らなければならないはずだと、と。
僕は次の定期健診で同席してそれらの説明を求めたいと妻に言った。
話し合いの結果、とりあえず次回の定期健診では妻から話を聞くと言うことになり、僕はその結果を待つことにした。


毎月の第1月曜日が定期健診の日になっていた。子供の時からずっと見てもらっている小児科のH先生と呼吸器内科のS先生、二人が同時に外来を観る日がその曜日だったからだ。

先ずは小児科のH先生に妻はそれとなく切り出した。妻にしても肺の病状までH先生に聞くのは無理があると思いつつ、やはり頼れるのはH先生だった。
すると意外にもH先生から話が聞けた。
先生の話では、やはり娘の病状は良くなく、今後は深刻な事態もありえるとの事だった。
そこで唯一の治療法として考えられるのが肺移植術であること。その場合は移植手術の可能な別の病院に転院になること。
そして実はすでにそれに向けてのアクションを起こしていて、もう少し先が見えてから話をするつもりでいたと言う事だった。

「肺移植、、、ですか?」
「そう、酸素療法は対処療法でしかなく、根本的な治癒を目指すなら移植しか道は無いんだ。ただ移植には当然、肺を提供するドナーが必要になるから、、、
あっ この後 呼吸器だよね?
S先生にもお母さんが心配してることを伝えておくから、詳しいことはS先生から、、、」
それがH先生の話しだった。


肺移植・・・すごい事になったな。馬鹿みたいに単純な感想だ。本当に、そんな大それた高度な医療が受けられるのだろうか。

生体肺移植術は、国内では京都大学病院と岡山大学病院の二院でしか行われていなかった。現京都大学病院呼吸器外科の伊達先生が米国ワシントン病院より持ち帰った高度な先端医療だ。
ネット検索してみると、伊達先生はNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で取り上げられている事がわかった。
「絆をメスに」と言う副題の付いたその回の放送では、移植手術の前日はスタッフ一同ゲン担ぎでカツカレーを食べると言う人懐っこさと、その一方で、夜遅くまで手術のイメージトレーニングとして、空中でメスを振るうストイックな伊達先生の後ろ姿が映っていた。

この人が美月を救ってくれる。
この人なら、きっと美月を救ってくれる。

僕と妻は食い入る様に、その映像を目に焼き付けた。

その週末、S先生から連絡があった。生体肺移植に向けて調整していた京都大学病院から、移植の方向で面談したいので家族全員で京都大学病院まで来て欲しいとの連絡があったのだ。


2016年9月12日早朝、僕らは家族全員で京都にむかった。
事態の進展する期待感と、もし移植が受けられないと判断されたら、、、
二つの想いが交錯する中、久々の家族旅行は妙な緊張感のあるドライブだった。

ほぼ開院と同時刻、僕らは京都大学病院についた。
美月は携帯型の酸素供給機を持って来ていて、未だ自分の足で歩いてはいたが、負担を避けて車椅子を借りる事にした。受付を済ませた後、僕達は一般の外来患者さんに混じって、呼吸器外科の待合で待った。

ついに名前が呼ばれて、僕らは狭い部屋に通された。
中にはあの伊達先生ともう一人若い女性がいた。
「移植コーディネーターの I です。今日は遠いところお疲れ様でした。
それでは今から美月さんの病気の治療について、伊達先生からお話がありますので、途中でも分からない事があればいつでも質問して下さい」
と言った。
名古屋から送られていた治療データなどには既に目を通されているようで、先生は僕らの緊張を察してか、いきなりこう切り出した。
「それでは、美月さんの治療に当たって、生体肺移植の準備を皆んなで進めていきましょう」

[えっ、肺移植が受けられる?その前提でいいのか?]
僕は妻の顔を見遣った。

妻が口を開いた
「先生、美月は移植を受けられる、、、と言う事ですか?」
「はい、美月さんの病気はお薬では良くならない病気で、生体肺移植術の適応条件を満たしています。問題は誰がドナーになるかです。生体肺移植術のドナーの条件として、レシピエントつまり美月さんの親族に限られます。また、年齢は20歳から55才位までの健康な方と言うことになります。
移植後の拒絶反応を回避する為にもHLAの近い事が望まれます。
美月さんは7歳の時にお兄さんの正弘さんから骨髄移植をされてますので、その点では優位な状況にありますが、健康状態などのその他の要素も診てドナーを決めなければなりません。
それと、ご家族の内 美月さんも含めて3人が同時に大きな手術になりますので、サポートとしてもうお一人の方も京都に常駐していただく事になります・・・」

妻の目には涙が滲んでいた。
正弘は緊張のあまり、貧血を起こしてしまった。
美月は先生の一言一言を聴き逃すまいとして、懸命に息をしていた。

ただ、直ぐに移植が行われると言う事でもなかった。京都大学病院にしても、開胸しての肺を摘出する手術が三つ同時進行になるのは大変なオペだ。既に予定の組まれている患者さんもいる。早くても10月の後半になるだろうとの事だった。


夕日を背にしてその日のうちに我が家は帰宅した。長い様であっと言う間の1日。
兎にも角にもあと少し。あと少しを乗り切れば娘は移植を受けられる。その日、僕らはそう胸を撫で下ろした。
玄関の酸素ボンベから伸びる二本のシリコンホースが命綱だった。 美月は常に携帯型の血中酸素濃度測定器を握りしめていた。

9月に入ってもなお厳しい残暑に誰もが参っていた。
美月がリビングでグッタリしていても特に気に留めなくなってしまっていた。

その日 僕は午前中に少しだけ仕事をしてお昼に帰宅した。シャワーを浴びて素麺を食べながら、リビングで横になっていた美月に声をかけた。
テレビには美月の好きなアイドルのビデオが映っていたので、チャンネル権欲しさにからかってみたのだが反応が悪い。
永く続く反抗期、よくある事だ。あまりしつこくするとその内キレる。

だか、その時は少し違った。説明にならない説明をグタグタと繰り返すのだ。

「うーん、よく分からんけど、良いよ見終わってからで、、、」
僕はそう応えて残りの素麺を流し込んだ。
食べ終えてリビングに来てみると美月は寝てしまったようだった。傍らのテレビチャンネルを取ろうとして僕は仰天した。

美月の男子で言えば喉仏のある所から少し下がった所が、呼吸に合わせて膨らんだり萎んだりしている。まるで酸欠の金魚の様に。しかも寝ているのにかなりの頻度で呼吸している。

僕は慌てて妻を呼んだが
「なに言ってるの、そんなのもう先週くらいからそうじゃん。それにさっき酸素濃度を測ったら91有ったから大丈夫だと思うけど、、」
と、取り合わない
「いや、そうかも知れんけど、こんなに酷く無いだろう、、、」
「けど、S先生は90台の内はまだ大丈夫って言ってたし、京大だってまだ何の連絡も無いし、、、」
「・・・」そう言われると何も返せなかった。

でも、何かがおかしい。
移植まで、ただこうして手をこまねいている事しか出来ないのか?

そもそも、今、娘を診てくれている主治医は?
小児科のH先生?呼吸器のS先生?
それとも、移植を受ける京都のD先生?
それぞれ素晴らしい先生方なのだけれど、例えば、センターとショートとセカンドの間に上がったフライを皆んなが見合ってしまう様な。
あるいは、そうじゃないとしても、骨髄移植後の晩期障害からの若年性の肺線維症なんて、そもそも症例自体が乏しい訳で、娘の病気の進行が先生方の予想を越えて悪化しているとしたら。

何かしてやれる事はないのだろうか?
と言うか、
何かをしなくてはならないのではないのか?

僕は携帯を取って、先日京都で会った移植コーディネーターのIさんに電話をした。
「娘の容態がかなり悪くなってるみたいで、すみません、どちらの病院に連絡したものかわからなくて、とりあえず I さんに電話してしまったのですが・・・」
「そうなんですね。もしかしたら先生方の予想以上に進行してるのかも知れませんね。こちらとしても移植の準備を進めていますが、ただ、現時点では転院前なので、急変であれば名古屋で診ていただくしかありません・・・」

確かにそうだ、難しく考えずに、S先生に連絡すべきだった。
電話を切ってすぐ、僕は名古屋医療センターにかけ直した。
S先生は学会でお留守だったが、代わりに若い女性のT先生が電話に出てくれた。
「それでしたら直ぐにお連れ下さい。緊急外来で受付して私を呼んで下さい。」


僕と妻は直ぐに美月を抱きかかえ、名古屋医療センターに向かった。この時、既に美月の意識が朦朧とし始めていた。

緊急外来で美月を預けてしばらく待っていると、T先生が出てきてICUに向かうので、僕達もICUの待合室で待機する様にと告げていった。

ICUの待合室で1時間ほど経過した頃、T先生が僕達を中に招き入れた。
美月は未だ意識がある様だったので安心したが、事態はかなり深刻だった。
うまく酸素が取り込めなくなってきていて、心臓に負担がかかっているとの事だった。
さらに、大事な話があると言って僕達をICU内のデスクスペースに座らせた。

「美月さんの容態は深刻です。移植を受ける為にも、直ぐにでも人工心肺装置を導入しなければなりません。それに当たってはご家族のご同意が必要な事と、全身麻酔を使いますので美月さんと意思疏通ができるのは今の内、という事なります。。」
「ちょ、ちょっと待ってください。移植の方は未だ日程も組まれて無い状況ですが、この状態で移植まで待つと言うことですか?」
「はい、それと、これはとても大切な事なのではっきりとお話ししなければならないのですが・・・
移植が受けられるかどうかは京都の判断になります。また、当院の人工心肺装置では長期間の維持管理ができないので、いずれにしても早急に京都に転院しなければなりません。明朝一番に、私が京都大学病院に連絡を取ります。もし先方が受け入れていただけるのなら、私が責任を持って美月さんを京都までお連れします。」
「えっ、それは、移植が受けられない可能性も有ると言うことですか?
だとしたら、装置につながれたまま命を落とすと言うことですか?」
「そう言う事もありえます。ただ、そうならない為にも、一刻も早く人工心肺装置を導入しなければなりません。
必ず私が美月さんを京都にお連れします。ドクターヘリに同乗してでもお連れします。ですから、ご決断を・・・」
理屈では理解できても、直ぐに「お願いします」とは言えなかった。
見切り発車のまま人工心肺につないでしまい、もし京都が移植を無理だと言ったら?
20年間病気と闘い、その最後がこんなにも残酷な結末だとしたら、、、

頑張ったね、お疲れ様、、、の労いも
ありがとう、、、の感謝も伝えられないまま、、、
そう想像した瞬間、涙が溢れた。

しかし、答えは決まっている!
今、諦めることなどあり得ない。
妻もボロボロと涙を流しながら頷いた。僕はこみ上げで来るものを押し殺して、目の前の熱意ある医師に訴えた。
「先生、お願いします。どうか美月を京都に送り出してやってください」

それから30分ほどして、人工心肺装置に繋がるギリギリのタイミングで兄の正弘とおばあちゃん、義妹が駆けつけた。
美月は朦朧とした意識の中で自発呼吸にこだわっていた。
「わ.た.し.ま.だ.だ.い.じょう.ぶ....じ.ぶ.ん.で.こ.きゅう.で.き.る...」
おそらく事前に仕入れた情報で、人工心肺に繋がれるという事が最悪の事態である事を知っていたのだろう。

僕と妻は嘘をついた。
「美月、大丈夫だよ。移植が決まったから、その為の処置だよ、、、」
「そうだよみーちゃん、何にも心配いらないからね、、、」
20年前、首にできた腫瘍を生検する為に手術室に送り出したあの時の様に、僕達は美月の頭を撫でた。
妻の言葉が届いたのか、美月は「えっ、そうなの?」と言う表情をした。
「うん、そうだよ、だからもう大丈夫!ゆっくり休んで、、、目が覚めたら京都だよ、だから、安心して休んで良いんだよ」
もしこれが娘にかけてやれる最後の言葉となってしまうとしても後悔のない様に、全身全霊で「ゆっくり休んで」そう伝えた。
美月もその言葉に少しだけ微笑んで目を閉じた。そしてベットが運び出された。

・・・続く

僕は君を守れるか_序章_元疾患編 indexはこちら

僕は君を守れるか_破章_骨髄移植編 indexはこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?