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僕は君を守れるか_序章_元疾患編

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20年前、当時4歳4カ月で小児がんを患った娘の闘病を、当時の手記を元に再編しました。闘病記と言うよりは、一つの家族の物語、、、として読んで頂けたら嬉しいです。
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たしかなこと [父親目線の小児がん闘病記]

 朝目覚めた時、それが夢なのか現実に有った記憶なのか、しばし判別のつかない事がある。  今朝見た夢は、幼少の頃に過ごした実家近くの路地裏で僕は学校帰りの君と出会う。 手を擦り合わせて頼み込む僕に、Yesとも Noとも答えず、ただ悪戯ぽく微笑む君。 現実の君は今も続く反抗期。 冷静に考えればそんな事などあり得ることは無く 「ダウト!」と僕は今みた夢に言ってやった。 そうだ、まだ判別のつくうちに、これまであった事。 確かにあった事を書き残しておこう。 今から書くことは、

初期症状[父親目線の小児がん闘病記] 僕は君を守れるか Vol Ⅰ-1

もう20年も前の事だから全てを覚えているわけじゃないんだ。でも、さすがにあの日の事は覚えている。 あの日、四歳と四ヶ月になる風呂上がりの娘の体を拭きながら、妻が僕を呼んだ。 「ねえ、お父さん、美月(娘)の首のところ、ほらここ、なんか硬くなってる」 娘の首、僕から見て右側が少し盛り上がって見えた。 触ってみると固く、ゴツゴツしていた。 「痛い?」と聞いてみたけれど、娘は首を振った。 「リンパ節のある所だね」そう言いながら、僕は何度もその辺りを撫でたり押したりした。 それと

小児がん拠点病院・連携病院 [父親目線の小児がん闘病記] 僕は君を守れるか Vol Ⅰ-2

 月曜になって、僕達はM総合病院へ向かった。 受診した医師の話では、リンパの腫れをもたらす病気はいくつかあって、それを突き止めるにはしばらく入院して検査が必要との事だった。 診察室を出た僕達は、看護師さんに促されるままに入院の手続きをした。緊張していたのか、書類に上手くサインできなかった。  病室は二人部屋で、奥のベッドには、娘と同じ年頃の女の子が居た。 ウイルス性の胃腸炎との事で、入院当初は大変だったらしいが、今はだいぶ落ち着いた様子だった。感染症なので、一緒に遊ぶことは

告知 [父親目線の小児がん闘病記] 僕は君を守れるか Vol Ⅰ-4

翌日、生検の為に娘はストレッチャーで運び出された。 少し怯えた表情の娘を、妻が髪を解くように優しく撫でた。 僕も手術室に入る直前まで、小さなその手を握って送り出した。 切除は直ぐに終わり、娘は明るい表情で病室に戻ってきた。 腫れがほぼ無くなり喜ぶ娘の横で、H先生から後日改めて検査結果や今後についての話があると告げられた。 そして週末、僕と妻は看護師さんの案内で病棟の一画にある六畳くらいの狭い部屋に通された。 中にはH先生と看護師のNさんが待っていた。 テーブルの上には種

脱毛前に写真を撮ったんだ/化学療法

治療開始  治療開始前の検査として生検の他に行われたのが骨髄穿刺(マルク)。 針の太い注射器の逆バージョンを腰骨辺りに刺して骨髄液を採取し、造血の場である骨髄の状態を調べるのだそうだ。 大人の自分が聞いてもゾッとする検査、わずか4歳半の娘がそれに耐えられるのか心配した。 実際には局所麻酔をかけてから(大人は麻酔なしらしい)行うので、穿刺の痛みは感じないらしいけど、検査の後のグッタリした様子が痛々しかった。  もう一つは中心静脈カテーテル(CVC)。これは検査ではなくて、点

分厚いガラス扉が隔てる兄と妹/患児と家族

 小児病棟は免疫力が低下した感染症に対して無防備な子供たちばかりなので、お見舞いにも制限があった。 面会は必ず談話室兼食堂。当然、子供の体調のいい時に限られる。 また、たとえ兄弟であっても、子供は病棟の中に入ることは禁じられている。(子供は感染症キャリアの可能性が高い)  付き添いは1人。病院によっては完全看護で、まるっきり子供を預けてしまう所もある様だけれど、N大学病院ではお父さんかお母さんのどちらかが付き添ってほしいと言われていた。 なのでウチは土曜日の昼までを妻が見て

それしか僕には出来なかった/ネット時代の闘病法

 当時の僕は小さなインテリアデザイン事務所をやっていて、パソコン(マック)に向かうことも多く、小規模オフィスとしては比較的早期にインターネットにアクセスできる環境だった。もっとも、未だLINEもFaicebookもウィキペディアさえもない黎明期。医療関係の情報は各地の国立大学医学部のホームページを見て回った。 見て回ったと言っても、医学用語はチンプンカンプン。アクセスしてはその中の語句を拾ってまた検索。拾っては検索、、、拾っては検索。 インフォームドコンセント、セカンドオピニ

小児病棟の夜、母親たちの想い [父親目線の小児がん闘病記] 僕は君を守れるかⅠー7

抗がん剤の他にも種々の飲み薬を渡された。 四歳の娘にとっては、むしろこっちの方が大変。錠剤などは飲み込めるワケもなく、看護師さんや同室のお母さん方からのアドバイスで工夫して飲ませた。 中でもファンギゾンシロップと言うオレンジ色のシロップは強烈に不味いらしい。 気丈な娘ではあるけどやっぱり抗がん剤治療が始まると、次第に癇癪(かんしゃく)を起こす事も少なくなかった。これは付き添う親にとっても辛い。 4人部屋、同室の他の方々に申し訳無いと言うのもあるが、うまく子供をあやせない自分が

初めての外泊/寛解

 抗がん剤治療の第一クール(寛解導入療法)が終わって、マルク(骨髄穿刺)が行われた。 先生の口から無事に寛解に至った事が告げられた。最初の治療の結果(応答性)が予後に大きく関わると聞いていたので、僕達は素直に喜んだ。  寛解というのは骨髄の状態が正常の範囲にある状態のことで、必ずしも悪性細胞が0になった事を意味しない。一万個の細胞の中にたったひとつでも潜んでいたら、その一つが増殖を繰り返し、やがてまた骨髄は悪性細胞に占拠されてしまう。なので、治療は正常な血液の回復を待って、

あの日揺れなかったランドセル/父親失格

新年度を迎えて、美月(娘)の兄(正広)は小学2年生となった。 美月の入院中は、正広を妻の実家に預けていた。と言っても自宅のアパートから妻の実家までは歩いても5.、6分の距離。僕も朝晩の食事は妻の実家で取った。 朝食の後は正広をグループ登校の集合場所まで送り、その足で僕も仕事に向かった。 グループ登校では幼なじみが二人居たので、いつも、集合場所の手前から駆け出して行った。 真新しいランドセルが左右に揺れて行く姿に、自分の子供の頃と同じだと感じて安堵した。 ある日の朝、食事中に

謎の微笑み/父親の社会活動

何度目かの外泊。連休が絡んだ3泊4日だったと思う。けれど、最終日はどうしても抜けられない仕事があった。 病院には夜までに戻れば良い事になっていたので、仕事を終えて帰ってから向かうつもりでいた。  ところが、朝から美月(娘)の具合が変だった。抽象的な表現なんだけど、とにかく「変」だったんだ。 呼びかけても起きているのか寝ぼけているのか?もしかしたら麻痺があるのかとも思えるのだけど、そうでも無さそう。 発熱とか嘔吐とかの具体的な症状は一切なし。 とにかく「何かあったら電話し

退院 [父親目線の小児がん闘病記] 僕は君を守れるか Vol Ⅰ-11

この大学病院で娘は癌と戦い、半年の月日が経っていた。 前年12月、病室の窓から見えた景色は何もかもがグレーで、ただただぼんやりと、どこまでも続いていた。 それが今は、力強く新緑の木々は煌めき、花壇の花々が色彩を誇っていた。 そしてついに、退院の日を迎えた。 荷物をまとめ終えて空になったベッドサイドデスクが、今日が外泊ではなく、紛れもない退院の日である事を物語っていた。 娘も今日の日が待ちに待ったゴールであり、いよいよその瞬間が訪れる喜びに興奮していた。 病室を出るとき、同