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何度か、この場所で「考える事」について書いていますが、思考するって事をわかっているようで、本当にわかっていなかったと、つくづく思うわけです(笑)
前回書いた記事で、答えが無い事を書きましたが、特に私自身の場合は、答えはあると思って生きていたので、答えが無いという事そのものが、信じられないという感覚すら持っていたわけです。
表現を変えて言えば、目の前に出された物に、何の疑いも持つことなく生きていたという感じです。ここには、学校の教育制度そのものが「答えがある。」を前提として成り立っているという事も要因の一つのようです。
「柔軟な頭」って、何だろう?と思った時、世の中の流れを観て、それに逆らう事なく波に乗ったり、言われた事を素直に聞いて行動したり、そういう事をイメージしていました。でも、このイメージの中には、実際は自分で考えるという行為が抜けていたんです。自分が考えて、自分なりの「解答」を出して行動する、もう少し言えば「仮説を立てて、検証する」という行為が抜けていました。「そもそも、これってどうなのよ?」といった発想は、持ち合わせていなかったわけです。
あぁ・・・、今から「仮説&検証」なんてやっても遅い?と、立ち止まる自分がいて、少々途方に暮れたりもしましたが、それも違っていたのだと、思いました。
何故、途方に暮れてしまったのかというと、自分の中で、誰かを想像し、その誰かと比べて自分は劣っているというように感情的に囚われてしまったからでした。本来、比べる必要など全くなく、自分がどのように過ごしていきたいのか?そのために出来る事を考えれば良いだけなのでした。
誰かと比べて「劣っている」という感じる事は、ありがちな事ですが、そういう気持ちになった時は、やはり「柔軟な頭」にシフトできるよう、常日頃から意識的に「仮説&検証」をしながら、過ごしていきたいものですね。
「りんごは木から落ちる」というだけの、単純な引力説だけではなりたたない世の中ですし...。
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