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ロスチャイルド一族と天才ミュージシャンが生んだ名作

先日、かなり刺激的な「読書体験」をしました。
本のタイトルは『パノニカ ジャズ男爵夫人の謎を追う』
(ハナ・ロスチャイルド著、小田中裕次訳、月曜社)。
多くのジャズ・ミュージシャンを支援したことで知られるニカ男爵夫人の生涯を描いたノンフィクションです。

私もジャズ作品のライナー・ノーツなどでニカ男爵夫人の名前はよく目にしてきました。しかし、実際にどんな背景がある人なのかはほとんど知りませんでした。「男爵夫人」というぐらいだから相当な家柄のお金持ちで、ミュージシャンを応援する金銭的な余裕があったんだろうな、というくらいの認識だったのです。

それが、この本を読むと驚きの連続でした。彼女はヨーロッパで大きな影響力を持っていたユダヤ系の富豪・ロスチャイルド家に生まれていたのです。伝統的なヨーロッパの上流階級ではなく、「ユダヤ系」の家に生を受けたことが彼女の生涯とジャズの発展に大きな影響を与えていました。

1913年にロンドンで生まれたニカ。当時、ロスチャイルド家は銀行業で大きな成功を収め、政府を相手に政策までも左右できる億万長者でした。
ニカのわずか5代前の先祖はドイツのユダヤ人貧民街で小銭商をしていたのですが、大きな影響力を獲得すると、一族はイギリス上流社会への食い込みを図るようになります。

1932年にニカは社交界にデビュー。国王ジョージ5世と女王メアリーに正式に拝謁、続いて舞踏会やお披露目パーティーへの出席・・・。
活発なニカはやがてフランスのリゾート地で10歳年長の男性に出会います。フランス人でコーニグズウォーター家のジュール男爵です。やがて2人は結婚し、ニカは「男爵夫人」となりました。

その後、ニカはフランスで暮らすのですが、第二次世界大戦が始まりナチスがフランスを降伏に追い込む中、ホロコーストから逃れてイギリスに渡ります。やがてド・ゴールの自由フランス軍に志願して夫と共にアフリカやヨーロッパ戦線で従軍(!)。暗号解読などの任務を担っていたそうで、「男爵夫人」という肩書からは想像のつかない大胆さがありました。

戦後、外交官となった夫の「従順な配偶者」であることに行き詰まりを感じたニカは、30代の終わりにニューヨークに移住します。そのきっかけが友人のピアニスト、テディ・ウィルソンが彼女に聴かせたセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」でした。

「何というか、私は自分の耳を疑ったわ。そんな音楽は、これっぽちも聞いたことがなかったからよ。そのまま続けて20回も、そのレコードを聞かずにはいられなかった」
(『パノニカ』186ページよりニカの言葉を引用)

「ジャズ界の伝説」とも言われるこのエピソード。1954年にモンクと出会ったニカは本格的に支援を行うようになります。この頃、モンクはニューヨークのクラブで演奏するための「キャバレーカード」をヘロイン所持のために取り上げられており、苦しい生活を送っていました。そんなモンクをニカは「自宅」としていたホテルに招き、思う存分ピアノを演奏させ、作曲できる環境を整えました。

そうした中で生まれたのがアルバム「ブリリアント・コーナーズ」。
ニカはリハーサル・セッションの費用負担やミュージシャンの招集も行い、ジャズ史に残る名作に貢献しました。

アルバムにはモンクがニカに捧げた曲「パノニカ」が収録されています。
実は「ニカ」は愛称で、「パノニカ」が本名なのです。愛情あふれる演奏が2人の関係をよく表していると思います。

1956年10月9・15日、12月7日、NYでの録音

Thelonious Monk(p,celeste) Ernie Henry(as) Sonny Rollins(ts)
Clark Terry(tp) Oscar Pettiford(b) Paul Chambers(b) Max Roach(ds)

③Pannonica
モンクは右手でチェレスタ、左手でピアノを弾くという意外なやり方で演奏していますが、これがあまりにも見事に曲調と合致しています。
イントロでおもちゃのピアノのような音色のチェレスタとピアノが併用され、不思議な響きに聴き手が「おや?」と思う間もなく、アルトとテナーの2管でメロディが奏でられます。
スローで提示されるメロディはアルバムの中ではかなりストレートで2管の厚みもあることから温かく感じられます。
最初はロリンズのテナー・ソロ。モンクの曲とロリンズのテナーは非常に相性がいいようで、最初はメロディを分解しながら探るように進み、やがて伸び伸びと歌い出します。3分50秒ぐらいにはうねりをつけた3連符を交えユーモアたっぷりに吹いています。
続くモンクはロリンズの3連符を最初にピアノで引用して余裕を見せた後、すぐにチェレスタに乗り替わってソロを展開。これがゆったりした女性のウォーキングを思わせる非常にチャーミングというか、親しみやすいソロです。この後にいったんピアノで例の3連符を引用しながら再びチェレスタへと戻る複雑な構成。おそらくはニカが用意したリハーサルによってある程度「バンド・サウンド」ができていたことが功を奏してこのようなチャレンジができたのではないでしょうか(ぺティフォードとローチはセッション中、自由なモンクに怒っていたそうですが・・)。
ニカの自由な精神を思わせるような「気ままな響き」が何とも魅力的な曲です。

ニカとモンクの関係はモンクの最期まで続きました。晩年のモンクは精神疾患と前立腺の摘出による身体的な不調に苦しみますが、ニカがあらゆる医療的なサポートを手配したということです。しかし、モンクは1982年2月17日に64歳で亡くなります。

育ちも人種も全く異なるニカとモンクがなぜこれほどまでに信頼し合い、長い時間を共にすることになったのか。『パノニカ』にはモンクの「本質を見抜く力」や天才性にニカが惹かれていったエピソードが多数紹介されていますが、私は本文中にあるソニー・ロリンズの言葉にヒントがあるように思います。

「ビバップを演奏していた人たちは、単に才能あるアーティストというだけではなく、一人の独立した人間として認めて欲しかったんだ・・・
(中略)・・・
みんなが気づいているように、音楽というのは社会の方針とか愛国心を乗り越えることができる。あらゆる人種的背景を持った人々を、互いに引き寄せることができるのが音楽なんだ」

(『パノニカ』194ページより引用)

先述したようにニカは戦争中、ユダヤ人としてフランスを追われ、戦後は「外交官の妻」という存在に収まることを拒否してニューヨークに渡ります。「大富豪の一族」という規則に縛られた社会から逃げたいという「自由への渇望」もあったようです。

そんなニカにとって、人種差別に悩みつつ即興演奏という自由な形式で評価を求めるジャズ・ミュージシャンの存在はどこか共通するものがあったに違いありません。

活発なユダヤ人女性と天才ジャズ・ミュージシャンが戦後から10年を経ないタイミングで出会ったことが偉大な作品を生み出すことにつながったー
閉塞感のあるいまこそ、私たちは歴史に学んで「自由な精神」の居場所を確保することができる寛容さを持つことが必要なのではないでしょうか。

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