【マジックリアリズム、世界にはn乗の鏡像しかないという認識の頂点】『ネオン・デーモン』(ニコラス・ウィンディング・レフン)

自我という器に入ったナルシシズムという水。器は自らの内に水を保つことではじめて器としての存在価値を確認できるという点で、ナルシシズムの水面の高度こそが生と死を分かつラインなのである。問題は、これほどにも重要なラインがあまりにも捉え難いことであり、この捉え難さが人生をかくも生き辛くさせるのだが、この測量不可能性において人は夢を観ることができるのだから、ナルシシズムを祝福しようじゃないかというのがこの映画である。自分が夢を叶えられる人間であると思えるか思えないか、自分が夢を叶えられる人間であると思える人間であると思えるか思えないか、自分が夢を叶えられる人間であると思える人間であると思える人間であると思えるか思えないか、というようにナルシシズムの測量不可能性は合わせ鏡の要領で無限にメタ的な様相を呈する。われわれは誰しもがこの合わせ鏡の中央に立ち、賭けをしなければならない。その賭けというのは、直接見ることが出来ず容量の分からない器を水で満杯にせよ、ただし、もし器から水がこぼれてしまっていたらその分を器の中から差し引くというものである。ジェシーは器の容量の倍以上の水を注いだことにより、空になったプールの底に頭を打ち付けて死んだが、類まれな美貌を持って田舎から出てきた娘であったがゆえに誰よりも強く月の引力に導かれたことはどうしようもなかったことのように思われる。注ぐ水の量の決定権は必ずしも自分の意識にあらず、その時々の月との距離感によって、増えたり減ったりしてしまうだ。だから、ジジ、サラ、ルビーという三つの逆三角形の中心にジェシーという三角形のピースがはまることでできる大きな逆三角形の物語の、その対極に位置する大きな三角形の物語の存在もまた措定可能であり、その真ん中にある逆三角形のピースもまた死ぬということ、その場合はジェシーが月の引力によってナルシシズムの水を横溢させたのとは対照的に、月からあまりにも離れすぎてしまいナルシシズムの水を一滴も注ぐことが出来ずに、自然蒸発に任せて器を干からびさして死ぬということもまた理解できる。私はどっちかというと干からびて死ぬタイプだから、どうせならナルシシズムの溢流を感じて死にたいと常々思っていて、だからこそ、世界にはn乗の鏡像しかないというマジックリアリズムの認識の頂点ともいえる万華鏡のような三角形の鏡の間で流し目をキメてみせたジェシーは、私にとって憧れのヒーローなのであった。

ネオン・デーモン(The Neon Demon)/ニコラス・ウィンディング・レフン(Nicolas Winding Refn)/2016

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?