【Act、行為すなわち演技】『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー)


閑静な自然に囲まれ朽ち果てた三枚の広告看板は平穏な日常の中で記憶が風化していくことをミルドレットに思い出させた。あるいは、時間経過と記憶の後退により痛みが薄れていってしまうことへの罪悪感がミルドレットに朽ち果てた広告看板を発見させた。両者の歩み寄りの結果として、両者は出会ったのであり、結果論としては必然的な出来事、運命的な出会いであった。この運命的な出会い、すなわち三枚の広告看板の触発によって彼女は闘争状態へ向かうことを余儀なくされる。つまり、これは彼女の意志の問題を超越した問題でなのある。ファーストシーンで髪を下ろし、年相応の女らしさを振舞っていた彼女は、髪を結び上げ、つなぎに身を包むことになるが、これはまったくもって衣装であって、災害時にヘルメットをかぶる政治家のそれと機能的には同じである。彼女の内に広告を掲載することに対する引け目があるのは明らかで、ウィロビー署長を槍玉に挙げることの不当性も分かり切ったうえで敢えてそういう行為に出たのである。行為actとはすなわち演技actなのである(演技は必ずしも嘘ではないという点で広告と似ている)。「行為=演技」の言い換えは「振舞い」だろうか。この映画から溢れる慈愛は人が振舞うこと(振舞わざるを得ないこと)への理解と肯定でできている。この映画の登場人物の多くは自分が振舞い、他人が振舞っていることを理解している。他人の振舞いを額面通りに受け取る野暮な奴の代表は報道メディアであるが、他人事の遠い距離が想像力の欠如をもたらすという自然の節理の象徴であって決してそれは短絡的なメディア批判ではなく、距離と厚みの関係に関する地球村の悲観的観測にすぎない(本作におけるテレコミュニケーションの扱われ方、時代感)。そして、一度は燃えた看板をもう一度元通りに直すこと、その修復作業の晴れ晴れとした感じは、人が振舞うことを全面的に認める寛容さに満ち溢れ、ラストシーンで「道々決めればいいさ」という“自分でもよくわかんねーよ”といった感じの極めて人間的な意志薄弱さの肯定、というか同一化の回避、奥行きの認識といった方向に救いを求める真っ当さに心を打たれる次第である。

スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)/マーティン・マクドナー(Martin McDonagh)/2017

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