【戦い、神=父=男の受肉の儀式】『オンリー・ゴッド』(ニコラス・ウィンディング・レフン)


戦いとは男にとって受肉の儀式に他ならない。
「さあ神よ、俺は男だ、かかってこい。」

両の手を見ると拳は赤く染まっていた。悪魔的な母親は、息子がエディプスコンプレックスを無意識に忘却、克服することを断じて許さず、抑圧の効かない不能者に仕立て上げることで、その男を支配下に置いたのだ。男にとって拳はペニスであり、ペニスは拳であった。暴力と性欲が同一化した男は自分の男性性に原罪を背負っていた。幸いなことか不幸なことか、彼自身はその罪に非常に意識的で、俺は兄とは違うのだと、腕を椅子に縛り付け、入念に手を清めるものの、当然、高まる性欲を抑えられず、手は赤く染まるのであった。それでも彼が世界の均衡をかろうじて保てていたのには一人の娼婦の存在があって、男と女の関係を、たとえそれが虚構であっても確認していたからであった。やがて、兄の死に不穏をかぎつけた悪魔が再教育にやってくる。母との面会は娼婦とのかけがえのない関係を自ら切断してしまうほどの分裂を彼に与え、悪魔の計略は成功したかに思えた。しかし、結果は裏目に出た。彼と娼婦との関係は現実だった。それが虚構だったら世界なんてとっくに終わっていた。結局は男が準備を整えただけだった。清算する時だ。全てを引き受けよう。男は固くしっかりとファイティングポーズをとった。それは自分が男であると自らに言い聞かせるかのようであった。さあ神よ、俺は男だ、かかってこい。神=男を自らに受肉させるために、彼は神=男(=父)に無謀にも挑んだのだ。大いに見栄を切り、矜持を貫いた時点で結果は分かっていた。戦いを終えた彼の拳はもはや不能ではなかった。その拳で少女を守った。その拳で母親を犯した。母親を犯したのは彼女を赦すためである。しかし、悲しいことにその仕方は死姦であって、赦しは同時に復讐であった。そう、今度は男が贖う番である。仮初めの神が贖罪を果たす時。いまやっと、男になった男は、去勢されなければならなかった。

【映画作品】
オンリー・ゴッド(Only God Forgives )/ニコラス・ウィンディング・レフン(Nicolas Winding Refn)/2013

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