映画「君たちどう生きるか」~人生最後に見る夢~
鑑賞後、一番感じたのが「誰かの葬式にいったあとの気分」
宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を公開翌日の土曜日の朝にみてきました。今作は事前に情報が制作側からもかなり制限されていた関係で、どんな映画なのか、さっぱりわからない状態でしたが、映画が終わったあと周りを見渡し際に「?」マークが頭についているような人も多かったように思いました。私としても本作については感想を述べるのに困るタイプの映画であって特にデートや子供連れでいくのは全くおすすめしない映画だったと思います。それはこの映画自体が表題通り、非常にパーソナルな内容でしか語れないタイプの文学・哲学作品になっており、全体の作りとして、通常の作品にある、シーンごと観客のリアクション想定しながら擬似的「対話」を考えて理解しやすく創作されたものでなく、作者すらも、よくわからない生々しいイメージを観客に与えて、それをどう受け取るかは「自分の人生の中で表現していきなさいよ」というある意味突き放されるタイプの作品になっているからだと思います。
そういった中で、なんとも言葉に表現しづらいけれど、生き死についてのなにか重いものを受け取ったような、ちょうど「誰かの葬式にいったあとの気分」というのが鑑賞後の感覚でした。それくらい、死や生のイメージが色濃い作品だったかと思います。
人生最後に見る夢
前作の「風立ちぬ」は宮崎駿の自伝的・遺言的な作品だと私は感じておりましたが、この映画をあえていうならば、宮崎駿を含めた多くの不特定多数がみるかもしれない「人生の最後に見る夢」を表現したものと解釈しました。それを見せた上で、「君たちはどう生きるか」と問いかけているのがこの作品の基本構造だと思います。人は人生最後の夢を見たあとに人生をやり直すことができませんが、この映画自体はある意味それを疑似体験させる意味があるかと思います。そのため、この映画の本来の受け手側の態度としては、視聴者自体が自分自身の見るであろう人生最後の夢を想像し、それを受けた上で、「私はどう生きるか」という答えを考えるというのが、あるべき作法かと思いますが、それ自体はかなり重たいため、ここでは、各モチーフ(夢の断片)についての私の受けた感想を書いていきたいと思います。
母というものの再考
人生で最後に振り返る夢とした場合、母親についての想いが1つのトピックになるというのは、私も含めて多くの人に共通して有りそうなことかと思います。私自身の母親は健在ではありますが、生きているうちにできていないことなどの、後悔などはどうしても残るように思います。1ついえるのは、自分は母親がどういう人間なのかあまり知らない、知ろうとしていないということであり、その想いを揺さぶってくる表現が多いのが本作の特徴かと思います。
この映画で登場している母親の形は3つの角度から描きそれについて考えさせる作りとなっています。
・失った母親 (久子:火事で亡くなった母親への愛情・後悔)
・少女としての母親(ヒミ:自分と同じ対等な存在としての母)
・新しい母親(夏子:父親の恋人としての女としての母、母の愛とは?)
ここで描いているのは、母親といえども、ひとりの人間であり多様な面をもっていることと、また母親からの愛情というのは、当たり前のものとして、享受できるものではないということを、夏子と眞人の関係で描いているかと思います。
なぜ、眞人は塔に消えた夏子をあそこまで意固地に連れ帰ろうとするのか?夏子が示す眞人への愛情は本物なのだろうか?などはこの作品ではわかりやすく説明したりはせず、そんなことは観客自身が考えることであってそれぞれの答えを出すものとして設定されています。
また一方の見方としては、母親というものを(男場合)一種の恋の対象としてみているのではないか?ということもこの作品は問いかけているかと思います。そういった見方を感じる人はこの作品の気持ち悪さのようなものを感じるかと思いますが、これ自体が「人生最後の夢」なわけであって、社会的に問題があるとかそういった制約などから解放された世界であり、例えばあの世では、年齢も関係なく、血縁も関係ないお互いが魂だけの存在に還元されるとしたら、本当のところはどうなんだろうか?ということと同様に考えられるかと思います。このことは、ヒミの可憐さや可愛らしさ、夏子自体が色っぽくみえるような描写の中に含めているかと思いますが、それらも含めて、そもそも母親の愛情というものについての、不確かさや尊さのようなものを、もんやりと投げかけてくるような作品であることを自分としては感じました。
「宮崎駿」の精神分析はやめよう
一つ注意したいのがこういった作品なため、「宮崎駿」自体の内面を精神分析して、あたかもそれが作品についての批評のような形になりがちですが、そもそもがこの映画は「君たちはどう生きるか」という投げかけつつも、その答えを聞く素振りもみせず立ち去っていく「宮崎駿」の映画であって、「宮崎駿」の中に答えを求めて問い返すというのはかなりダサいやり方だと思います。
それについては本来のこの映画の興味の対象ではなく、あくまでこの映画で提供された誰もがなんらかしらに思い当たるような「人生最後の夢」を事前に見るという機会を受けて、観客が自分という主体がどうするかということ考えることが主題であるという点について注意したいと思います。
余談にはなりますが、接し方の近い作品として例えばアーシュラ・K・ル=グウィンの短編『オメラスから立ち去る者たち』で、なぜオメラスから立ち去るのか?あるいは立ち去るべきなのか、残るべきなのか?犠牲になっている子供とはなんなのか?などの問いについては、作者や他人に聞いた答えによって満足するというたぐいのものではなく、読者自身が作品を受けて倫理観を問い直すという作業こそ、価値があるはずです。今作は「人生から立ち去る者たち」と言い換えることもできるような作品なので、本作に対する態度としては、同様のあり方が望ましいのではないかと思います。
少年と老人の多声性
本作では主人公の眞人と旅のパートナーとして、アオサギやキリコといった老人が配置されています。物語の序盤に塔の世界に入るとき、キリコは最後まではついてこないように私は最初に思いましたが、予想に反してキリコは眞人について来ました。ここが本作の特徴で、映画全体が一人の人間の「夢」であるならば、俗物のように描かれている、アオサギやキリコも自分自身の一部として、眞人と同等の存在であるという必然性があるからだと思います。さらに、タバコを子供にねだろうとしていたようなキリコが、塔の世界での若い姿では、生まれる前の魂を育むという高潔な仕事をしているなど、キリコの中でも、さまざまな価値観が同居している人物として描かれています。アオサギについては、眞人を塔に連れ込み食べたいといった考えてた一方で、夏子を助けるという眞人の手助けすることになりますが、塔の主(大叔父)の命にしたがって義務的にしているのか、人情によってしているのか、信頼するには不安定な存在として描かれており、また眞人自身も物語冒頭で自分の側頭部を石で打ち付けるなど、不可解な行動をとりつつ(後に自分の罪と語る)観客にも理由を語らないといったように、一人の人間の中でさまざまな行動原理があり、それぞれの意味を明示しない形式の作品となっています。
これは一人の人間には、いくつもの内面の声を持っているという「多声性」の考えであり、たとえ老人であっても子供の自分というのは心の中に残っており、耳をそばだてることによって、子供の自分の思いというものを発見できるということを意味しています。一方で、俗物的で厭世的な自分がいたとしても、それ自身は無いことにならないということになります。重要なのはどの声も自分自身であり、それ自体を偽物や無いものとして扱ってしまうと、人間としてどこかしら、不自然で無理な状態が起こるということです。
例えば昨今のSNSでは1つの事件などに対して短絡的に反応して断罪するような集団のリンチが起こりやすいですが、SNSというのは短絡的な1つの声のみを増幅する装置なので、いったん落ち着いて自分中の多声性に向き合って考えることが重要かと思います。
いずれにしましても、この映画では、「人生最後の夢」で本当の自分は眞人のような(表面的には)純真な心が自分の本体というのではなく、老人もペリカンも、少女も、すべて自分自身であり、本物のただ一人という者はいないということを人生最後の種明かしという体で示しています。問いかけるのは、もしそれが人生の最後でなく事前に理解しきっていたとするならば「君たちはどう生きるか」ということになるかと思います。
1つの積み木 残るものとは、漏洩するもの
映画の終盤で塔の世界から脱出した眞人は世界の積み木の1つを持ち帰っており、また塔の世界の記憶も失っていないという描写について考えたいと思います。
塔の世界の創造主(大叔父)は眞人に自身が作った汚れのない積み木で構築された世界の継承を依頼しました。眞人はそれを断りましたが、一方で大した力はない1つの積み木(アオサギの意見)であるとしても、眞人が持ち帰ったことにより、図らずも大叔父の塔の世界の一部が外部に流出したということになります。宮崎駿でいえば自身の作品は人生をかけて作り上げた結晶ではありますが、ほとんどの人には理解されずに消えていくという諦めの思いもあるのではないでしょうか。一方でどこかで何かしらの世界に影響を与える価値(その影響自体を自ら観測することができなくても)あるのではないかという希望がセットになった表現であるかと思います。これは宮崎駿に限らずほとんどの人が自分の生きた証のようなものを作ることができず、人生の最後において祝福され、意味があったということを保証してくれるような仕組みが用意されていない(宗教的にはあると説く場合もありますが、客観証明できない)この世界で人は生きていかなくてならないということは事実に対しての一つの希望を示していると思います。例えば、実体験として故人を偲ぶ会話などでは、その人自体の思ってもみなかった、影響があることなどを感じることがあるかと思います。「子供が生まれた日に庭に植えた樹木を晩年まで話しかけながら世話し続けていた」のようなエピソードが故人にあり、誰かの心に残っていたとしたら、その故人自体はそれを生きた証とは思っていないにしても、その人の想いがにじみ出て他者へ漏洩していっているとも言えるかと思います。これはその故人についての一つの積み木として、世界に漏洩して残ったものと考えられます。
君たちはどう漏洩して生きるか
ここで重要なのは漏洩するものが何なのか、その質がいま特に問われている時代になっているかと思います。漏れ出た積み木が汚れてるということがないことが大事です。漏洩するにも品格のあるやり方と、なにもかも汚いものもぶちまければよいいうやり方では、まったく違う振る舞いになるかと思います。世界との関わり方として、他者から漏れ出たものは、多声性を本来もつということ、自分の内の価値観においてもさまざまな種類があり、どれも本物であるということ、その中で、漏れ出ても良いというようなものは何なのか?それは世界にどういった影響が考えられるのか?などの問いを持つことが大事なことになってくるかと思います。そういった意味では「君たち(私)はどう生きるか」は「君たち(私)はどう漏洩して生きるか」とも言えるかと思います。人生最後に見る夢とはなんなのかを想う。想いつつ生きる。それによってより良きものが漏洩する。それが一つの生き方なのかもしれません。
まとめ
この映画自体に仕組まれているのは、あえて宮崎駿自身の考える「人生の最後にみる夢」についてのさまざまなイメージを明示的でなく漏洩させていくというスタイルで伝えつつ、多くの人の無意識にも刺激し、宮崎駿が立ち去っていく世界に対して起こるであろう何かしらの変化に希望を託すという試みといえます。「人生の最後にみる夢」の内容を想定しつつ生きることは意味があるのではないか?と映画の内容で問いかけつつ、同時にこの映画の公開自体が自らの人生の漏洩の作法の実践(サンプル)としての表現になってるという命題の提示と実践がセットになった二重構造の映画になっているともいえます。つまり「人生の最後にみる夢」を宮崎駿はこう考えたうえで、自らの人生の最後に、「人生の最後にみる夢」を多くの人に見てほしいという生き方を選んだということになります。これはかなり手の込んだ手法であり、宮崎駿一流のやり方ですが、私たちは、それを受け取って生きていくスタイルを模索していくことができるので、映画の内容の感想とは別に、彼に対する感謝と尊敬の念を抱いています。
余談
といろいろ書いてきましたが、この作品はエンタメ作品ではなく、文学・哲学作品寄りなので、特にこれという正解があるわけでなく、私も含めて人それぞれで誤読しても良い(むしろ推奨されるべき)受け手にとって自由な作品だと思いますので、エンタメ目的でないならば、多くの人が見ることをおすすめしたいと思います。
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