ぼくは一等賞になったことがない

全身全霊でぶっ飛ばしてやる。

ぼくは格闘技をやっている。はじめたての頃は、生活改善のためだったが、続けているうちに自分が強いのではないかと錯覚した。試合に出るようになった。

勝てるだろ、と思ったし、いけるとこまでいってやろうなんて思っていた。案外勝てなかった。

じきに実を結んだ努力もあって、3戦目で初めて勝った。そして思った、やっぱりぼくは強いじゃないか、と。

そこから、中級者向けのトーナメントに出始めた。
一応大学生の最後だったので、記念半分、力試し半分といった感じだった。準優勝だった。

とても調子に乗った。我ながら強すぎるじゃねえか、という興奮と、一歩及ばない悔恨がせめぎ合っていた。始まってしまった、ぼくと一等賞との闘い。
思えばぼくは、一等賞になったことがない。
「惜しい」「いい線行っている」「次はいけるんじゃない?」
20,000回聞いたことがある。そんな慰めの匂いのついた褒め言葉はもういらない。

初めてのトーナメントの決勝は、同じジムのプロ志望の選手で、とても強い人だった。何度か練習で手合わせしたこともあったけど、到底勝てる気なんてしていなかった。
でも、でもさ、力試しのつもりで出たら、プロ志望だらけの中で、決勝まで進んでいるんだよ、
その勢いというか、開花した僕の秘められた勝負強さみたいなものを感じて、その日は勝てる気がした。そのアドレナリンなのか、頭に激流のようなエナジーが渦巻いている感覚が忘れられない。


気づけば四年が経っている。ぼくはまだ同じトーナメントに出ている。そして何度も準優勝を重ねた。ぼくはまだ自分が強いと錯覚している。困ってしまうけど、強い気がするんだ。同時に、あと少しなら、惜しいなら、次はいけるって言うのなら、一等賞になりたいじゃないか。

この一等賞と次点の差を埋めるのは、
スタミナだ、戦略だ、練習量だ、知識だ、技術だ、
毎度テーマを変えてみたけれど、届かない。
でも確かなのは、あと一つなことと、ぼくはあと一つのままであること。

神童みたいな小僧にやられたことも度々あった。勝てるだろ、と思う相手にやられたこともあった。
多分、そのあと一つの何かは、ぼくの目に見えるものじゃないのかもしれない。

そして今度こそあと一つが見つかった気がする。ぼく自身の精神、心の成長だと思う。
一等賞への渇望や、減量の段取りや、小手先のテクニックなんかではなかった。

底力みたいなもののことを胆力と呼ぶことがあるけど、胆の力なんだと思う。腹の底にあるもの、肉体ではなく、ぼくのぼくたる中心(ちんちんのことじゃないですよ)なのだと思った。

だらしなさ、適当さ、生活習慣。
一等賞の人のそれではない一面がたくさんある。
その背景にある、何を思い、何を行動に移したか、で組み上がる今現在の自我。
こうなるためには、こうありたい、という自分への期待にどれだけ応えられたか、でしか成り立たない気がする。

ぼくは、塵も積もれば山となる、という言葉が大嫌いだ。塵は積もっても塵の山だ。強く信じている。
でも、そんな塵の山によって、自己肯定感や欲しい称号が得られないのは、不愉快だ。
ともすれば、塵の山であっても、塵が積もっただけの山であっても、微々たる差がつくというのか?
それなら塵の山を築こうと思う。塵だと思って、馬鹿にしていた細かいこと、全部かき集めて塵の山を作ってやる。

ぼくは、 見せてやれ、底力 というカロリーメイトのキャッチコピーが好きだ。いつだって見せてやりたい、底力を。
あのCMを見ると鼓舞されるし、なんなら泣いちゃう。
でも少し考えてほしい。底力って、きっと蓄えたり、積み重ねた結果としてあるもので、自然と生まれたりはしないのではないか。お前、遠回しに塵も積もれば...って言ってるんじゃないか?勘弁して欲しい。

話はぼくの言葉の好き嫌いに派生したけれど、本旨に戻ろうと思う。
毎回性懲りも無く試合に出ては、最後に負けて、不貞腐れる、不愉快なルーティンをおしまいにしたい。

きっと、優勝を期待されている神童たちは、
毎回出てきては2位の人じゃん、
決勝はこいつか、
とか思っているんだろ。
ぼくはお前らの越えるべき壁じゃねえんだよ。

ぼくは、ぼくに勝てると思っている小僧どもの予定調和の勝利を奪い取ってやる。
全身全霊でぶっ飛ばしてやる。(ほんとにぶっ飛ばすべきは、今の自身であり、小僧どもはその自身を重ねる対象で、体をお借りしてスポーツとしてやるよ、ってことは前提として)

そんな気概で今年1発目の試合に臨もうと思う。
長くはなりましたが、
塵の山を築いて、上位の精神体へと育っていこうという抱負でございました。

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