夏の日記
8月12日 土曜
昨日まで出歩いた分、今日は部屋で料理をしたり、ベッドでSNSを見るなどしてごろごろと怠惰に過ごした。取り立てて書くこともないけれど、サンドイッチを作ろうと具材の下拵えをしたところで食パンが黴ていたのに気がついたのには衝撃を受けた。ポツポツ浮かんだ青緑の斑点を目にした瞬間、今にも泣きだす前の子どもみたいに口がひん曲がってへの字を描いた。結局ピーマンの蒸し浸しと納豆と豆腐の冷や汁、六花亭の水羊羹を口にした。
夕方に午睡をとった。
午後7時にベッドで目が覚める。青空文庫で宮沢賢治のよだかの星を読む。自分でもなにかしら書きたくなり、昨日行った美容室にレビューを書いた。
「鏡を見るたびに髪が金色だ!と思います。髪が金色ってどういうことなんでしょう。部屋でだらだらSNSを見ているときも、ごろごろ本を読んでいるときも、金色なんです。頭がピカピカ光ってるんです。そう思うと不思議ですね。髪が金色でいい感じです。ありがとうございます。」
9時半ごろにセイコーマートのポテトを買って食べ、駅の改札内のドトールで食事をとる。期間限定、ミラノサンドの牛カルビ。舌に馴染んだ甘辛い味付けでパンも軽く、スナック感覚でぱくつくとあっという間に平らげてしまった。
ドトールに入るためだけに改札を通り抜けるとき、子供が親に内緒でいたずらをするような気分を久しぶりに味わった。直接ねだると親が嫌がるからとこっそり一人で本屋に駆けもどり、貯めたお小遣いで好きな漫画の続きを買うようなくだらないスリル。この雑踏の中の一人一人はどこか明確な目的地を目指して入る改札口に、私は単にカフェに入るためだけに潜入するのである。もし人から、あなたはどちらへ?と聞かれたらどうしよう!そうして入った場所と同じ改札をコソコソと出ようとして、係の駅員さんに「間違えて入ってしまって」としょうもない嘘をつくとすぐにばれた。当たり前である。
「30分前に入ってますよね?」
「中のドトールに行きたくて入りました」
中に入るのには入場券が必要だったことを教えてもらい、その分のお金を支払ってその場を離れた。恥ずかしくても正直に最初から「ドトールに入りたくて改札に入りました」と言えばよかったのかも知れない。家に帰る前にコンビニとスーパーに寄って新しい食パンとカットされたスイカを買った。
窓から入り込んだ質量のある湿気がこの部屋を満たしている。私の夏はもっと乾いている。友達と約束もせずに毎日小学校のプールで落ち合って泳いだ夏が、私の夏だ。水があんまり冷たいので、授業中によく凍えて唇を真っ青にしてはプールサイドで休まされていた。上がった後もしばらく体からのぼる塩素のにおい、音のよく響く高いビニールの天井、水色のペンキで一面塗られた水槽の中で弾ける無数のあぶく、帰り道のくたびれた身体に浴びる心地よい風が私の夏だった。
8月11日 金曜
朝方に突然不安の濁流に呑まれる。Twitterにその思考の流れを書いた。たとえば「あなたは天才…?」という私の二次創作の感想が来たこととか、誰かが私のツイートをRTしたあとに書いた好意的な感想のことだとか。何もかも独りよがりなんじゃないかとか。私は私を天才だと思ったことはないし、自分のツイートにそんな風な感想も持てない。人間が何を考えて何を思って生きているのかわからない。異なっているということは恐しい。人は異物を嫌う。生活の場から排除する。人と違うというのはそれだけで不安の種になりうる。少なくとも私にとっては。そういう時、一生ほかの人間とおんなじ存在になれないのだと思う。いつまで経っても人間と和解できない。人間になれない。ほかの人みたいにちゃんとできない。そんなようなことを暫く書いたと思う。
しばらくすると落ち着いてきたので、谷川俊太郎の詩集を読んだ。『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』。本は正気に、或いは平静に戻る手助けをしてくれる。私はいつでも安定した状態を望んでいるが、心身はなかなか思うようにコントロールできない。突然ベッドから動けなくなる日もある。なぜか涙が止まらない夜、最悪な感覚に塗りつぶされた時間もいつかは終わるということが最近やっとわかってきた。六畳の部屋の薄い空気を耐えしのいで、昇る朝日に晒されてみればすべてが少しはましに見えるものだ。
軽くシャワーを浴びて身支度をする。早くに出たので何か食べても美容室には間に合いそうだ。ススキノの松屋でごろごろ煮込みチキンカレーを頼む。ロカボ変更なるボタンを好奇心で押した。供されたカレーを見て驚いた。米がない。米の代わりと言わんばかりの山盛りのキャベツの千切りの皿はある。南無三。ロカボ変更とはこのことだったのか。すっかり騙された。米もナンもないカレーはなんとも侘しい有様である。キャベツの千切りにドレッシングをかけて食べ尽くし、カレーのチキンをスプーンですくって食う。冷たい水がうまかった。
美容室で3時間半ほどかけてアンブレラカラー(髪の表面にだけ明るい色を入れるので傘のように見える)を入れてもらう。薬剤を塗った髪にアルミホイルを巻きつけて色を抜くのだ。「これ以上切ったら男の子みたいになっちゃいますよ?」と言われながらゴリ押して短くしてもらったショートヘアの上澄みはライオンのたてがみのような金髪、その下はブロンドを引きたてる暗褐色に染めてもらった。初めてのブリーチでここまで明るくなるのは稀らしい。自撮りをTwitterに上げてフォロワーに褒めてもらい、すっかりご満悦の体だった。それから小腹が空いたので苺とチョコとバナナのクレープを食べた。甘くてうまい。
デパートの中のフライングタイガーを彷徨き、閉店に近くなってから表に出てみると、暮れる公園に盆踊りの曲が流れていた。私は祭りと盆踊りが大好きだ。大喜びで見にいくと、盆踊りの輪の周りに見物人の輪が出来ている。これでは中に入れない。落胆しながらも、外の輪の中で身振り手振りで踊っていると、「お姉ちゃん中で踊りなよ!」と周囲のおじさんが道を開けてくれたので、中に入ることができた。
盆踊りにいる、やたらと踊りにキレがある中高年のことが好きだ。ハレの日を存分に謳歌してしなやかな腕を振り、勿体ぶったような調子を取ってステップを踏む。赤いやぐらの上で朗々と北海盆唄を歌い続ける女たち、メインボーカルのおばさんは特にこぶしを効かせて気持ちがよさそうだ。あたりを見渡すと、観光客らしきアジア人や白人の若者が続々と輪に加わっては長い手足をぎこちなく打ち鳴らし、見様見真似で踊っている。私も初心者の手本になろうと張り切って踊る。自分こそが主役だと思って踊る。輪の中をぐんぐん回ると汗でワンピースが濡れる。エンヤーコラヨットドッコイドッコイコラヨットと掛け声をあげる。このままずっとこの輪の中で踊っていたい。
30分ばかり踊って、疲弊した腕と足がすっかりへっぽこ踊りになってきたので輪を抜ける。汗みずくの肌を掠める夜は生温かった。
今日を終わらせたくない。まだ家に帰りたくなかったので、今夜の金曜ロードショーを諦めてバーラウンジに入る。以前に父と行った老舗ホテルの一階にあるラウンジで、ピアノのジャズ演奏が聴けるのが売りのレトロな店だ。
バーテンダーと向かい合うカウンター席について「パナマ」という夏らしいデザートカクテルと水を頼む。ラムとクレームドカカオとクリームと氷を混ぜ合わせたクリーム色のカクテルで、舌に甘いがアルコールは強い。女性ボーカルの演奏に拍手を送りつつ、無料でサービスされるツマミの盛り合わせをちびちび齧り、酒と水を一口ずつ含む。アルコールを入れた後に煽るチェイサーの水はまさしく甘露だ。この冷たい水を飲むために酒を飲んでいるのかもしれない。グラスを空にする頃には睡魔が次第にもたれかかってきていた。
頃合いを見計らいいざお会計の段になって、100円硬貨が足りないことが判明した。慌てて
「すみません、足りないのでおろしてきます」
と口走ると、お仕着せのバーテン服を着た高年のバーテンダーがほどなくして
「5%割引にしますね、ちょうどお預かりします」と言ってくれたので、礼を告げてホテルを出た。いい人でよかったなと歩きながら思う。酔っ払うと街路樹で木登りがしたくなるけれど、きちんと堪えて家で寝る。
8月10日 木曜
予約した美容室に行こうと昼から外に出たというのに、今からの電車ではどうも間に合わないようだった。駅のホームで電話をかける。明日の同じ時間なら予約を入れられるらしいので、ではそれでと予約する。ちょうど来た電車にそのまま乗りこみ、次の駅で降りる。
レストランの入った商業ビルをうろつき、何はともあれ大戸屋に入る。ここならばなにかしら健康的なものが食べられるだろうという心算で入店したのにも関わらず、『梅おろし出汁で食べる ヤングコーンのしそ巻きチキンかつ定食』を注文する。言わば世に言う真理、揚げ物はうまい。食べながらスマホでドラァグクイーンについて調べる。男女規範へのアンチテーゼ、社会への挑発としての異性装というものを考える。東京で月末にドラァグショーがあるらしい。お金さえあれば行きたい由をツイートする。
店を出て目的地もなくうろつく。献血の看板を持って募集中の人に、体重が50キログラム以上の人を募集しているのでと丁重に断りを入れられる。歩き疲れて適当な商業ビルのベンチでブラックメタル・インナーサークルのWikipediaの記事を読む。北欧でブラックメタルのバンドマンが殺し合い、教会に火をつけ、自殺した。外出先でカルト事件のWikipediaを読むという愚行。こんなことをするためにわざわざ外に出たんじゃない、こんなもののために生まれたんじゃないと強く思う。
このままじゃ駄目だときめて、以前から気になっていたカフェに行く。Instagramによると、桃とアールグレイのカッサータが夏季限定で供されるらしい。到着した時には午後の5時を過ぎていた。ホットのブレンドコーヒーとカッサータを注文した後に、他の客がグラスに入ったアイスコーヒーを机に並べているのをみて、アイスの方にすればよかったなと思った。ブランデーグラスに似た、背丈の低い、胴が豊かに丸みを帯びたグラスだったのだ。美しい素朴な野花の描かれた皿に乗ったカッサータはつめたく美味だった。口に含むと溶けて桃の果肉とアールグレイの香りとクリームチーズのコクが広がる。コーヒーも同じ図柄のカップで提供される。鞄に入れていた『わたしを離さないで』をひらき読み返す。
食後に会計を済ませて図書館に行く。ウクライナの画家が家族を連れて他国に逃げ落ちるまでを書いた「戦争日記」を見つけて読む。そうこうしていると突然父から電話がきたので慌てて外のベンチのある広場に移動した。
なんてことのない会話だった。東京のドラァグクイーンのショーに行きたいと話したら、ドラァグクイーンについて尋ねられて簡単に説明した。
「アルバイトしようと思ってるんだよね。お金がほしくて、ほしいものもたくさんあるし、ないと何もできないし」
「お金が全てじゃないけどね」
と父は言った。
「お金が全てじゃないって言えるのはお金がある人だけだよ」
と私は答えた。父はそれこそ生まれたときから資金援助してくれている当人だというのに。
「お姉ちゃん(私の姉)にちょっと聞いたけど水商売だけはやめなさい」
と父は出しぬけに言った。
「中卒の女の子が行き着く先わかるか?お水だよ」
と父が数年前の私に言ったのを思い出した。なんと言って電話を切ったのか覚えていないけれど、ふつうの顔で「またね」だとかそんなことを言ったのだろう。終始穏便な通話だった。
電話を切って図書館に戻ってから、書棚の隙間をぐるぐると歩きながら父の言ったことについて考えた。父はきっと私にお水が云々と勢いで言ったことはとうに忘れているんだろう。かれこれ四年前のことだった。それでも許せないと思った。もう少し自棄になっていたら父への嫌がらせでキャバクラにでも申し込んでいただろうりこうして和やかに通話できる関係になっても、父のまともな振る舞いに我慢ならなくなるのは、突然キレて子供を怒鳴る人間のくせにと思うからだ。
けれども、私だって突然キレて泣き出す人間のくせに…と父に思われてる可能性はあるのだった。親子の力関係や年齢相応の成熟を思えば落ち度の重さは親にある。とうてい両成敗とはいかないけれど、今になって復讐する気もないのだからこれ以上考えても仕方のないことだった。
帰りしなに、かわいらしいこどもの様を見た。帰路には駅地下の透明なアクリル板の水槽のそばを通る。それは天井まである高さの細長いもので、ゆうに十羽を越す色とりどりのインコが止まり木に止まり、嘴で水をのみ、鳴き交わし、思いおもいに過ごしているのが、アクリルの壁越しに周囲からすっかり見えるように設計されていた。
「この鳥またキスしてる!チュー!」
とはしゃぐ幼い声に水槽を見やれば、言葉の通り鮮やかな南国を思わせる羽をもつ鳥が二羽、仲睦まじく並んで枝に止まっていた。そうしてキスをしているのかと思えば一層ほほえましく見えてくるのだった。
電車に乗る前にロフトに寄って新しいフライパンを買った。
だだっ広く明るい店内で外国人の観光客らしき家族連れとすれ違った。「How much is this?」とレジの店員に尋ねた少年が、わあっと両親のもとに駆け寄り、商品がいくらだったか報告している。それが傍目にいかにも無心で、かわいらしかった。
8月9日 水曜
ティーサングリアを飲むために外に出た。久方ぶりに浴びる午前中の日差しはぎらぎらと猛烈で、真夏がはたしてどんなものだったかを一年ぶりに思い起こさせる。熱気と光線に体力を奪われながら辿り着いたモスバーガーは、店内工事のため閉店していた。
がっくりきたものの、駅中のモスバーガーに進路を変更した。日が強いせいか影も濃い。少し歩けば無事に到着し、ティーサングリアとオニポテ(フレンチフライポテト&オニオンフライ)を守備よく手に入れる。ティーサングリアは思っていたよりかなり大きい。私の手首から指の先まである大ぶりなカップを、掌と並べて写真を撮った。甘く冷たい紅茶にくし切りのオレンジが詰まっている。
食べ終わってからロフトを物色し、セールになっていた雑貨類を買う。生理中だからか、ここらでかなり足腰が草臥れてくる。もう歩きたくない。まっすぐ家に帰りたいところだが、以前から見たかった映画がもうすぐ公開終了するのだからと気合いで歩く。
サツゲキで「close」を見た。少年の友情と別離を瑞々しく描いたルーカス・ドン監督のフランス映画だ。
主人公レオのまなざしが、親友レミのまなざしが、彼らの父母のまなざしが精緻に感情を映し出している。主人公の視線がカメラから観客に食いこむように一際まっすぐに射し込んでいる。喪失と受容、残された罪悪感を彩る美しい風景と音楽。
思春期に差し掛かる頃の少年の、まだ完成していない華奢な骨や長い手足が美しかった。あの自分ではどうしようもなく窮屈な、周囲にどう見られるかに囚われて友達に見捨てられたら世界が終わると思っていた頃を思い出した。率直に言えば、学校なんてクソみたいな場所に行かなければ二人はずっと一緒にいられたんじゃないかと思った。
レオの目はいつもレミを探している。学校で、花畑で、レミの部屋で。レミとふたりで眠ったように家族と眠り、レミとふたりで遊んだように友人と遊ぶ。そして不在がそこにある。人生はかけがえのない親友を失っても続く。それでも視界の一部が永久に欠けてしまっている。いなくなった人はどこを探しても見つからないし、支えてくれる友人や家族はいなくなった人の代わりにはならない。
登場人物が涙を流すたびに私も泣いていたので、あっという間に時間が過ぎていった。未だ暗い劇場にエンドロールが流れる中、誰かの啜り泣きがずっと聞こえていた。
映画館を出て商店街のアーケードを歩いていると、道端に楽器のケースを開いて弾き語りをしようと支度している短髪の男性が目に留まった。普段ならそのまま通り過ぎる風景にも関わらず、そうしなかったのは男性が手にしていた楽器がギターでもウクレレでもなく三味線だったからだ。猫かなにかの毛皮が貼り付けられた本格的な三味線に目が惹きつけられていた。
視線に気づいた男性に声をかけられて少しばかり話した。沖縄から来て、三味線の弾き語りをしながら世界を回っているらしい。短く刈った頭に日に焼けた肌をしていて、世なれて人懐こい、へへっとへりくだるような笑い方をしていた。
沖縄本島の海は汚いから離島に行った方がいいよ、カミュの異邦人はシーシュポスの神話と読むとわかりやすいよ、と言われたのは覚えている。
「さっきから気になってたんだけど、まさか結婚してないよね?」
唐突に聞かれたのは指輪のことだった。何を隠そう、私は左手の薬指にシルバーのデザインリングをしている。恋人はいない。
「いやいや、好きな人もいたことないですもん」
「え、彼氏いたことないの?一度も?」
「そうですね」
「え、じゃあキスしたこともないの?」
「セクハラですよ」
と質問攻めを簡潔に嗜めた。なるほど、インターネット上の言論空間では中々目にすることのない貴重なご意見である。21歳にもなって恋人がいたことのない人間は異常と見做されるらしい。普段話さないような人と話すとチンケな、あるいは手垢がつきすぎたのが1周まわって目新しい意見に接するので新鮮だった。そもそもこの指輪は、他人のラブとロマンスに興味津々のこの社会への単なる皮肉と挑発と逆張りである。
「にしても不思議だね。映画でそんなに泣くくらい感性が鋭いのに、恋したことないなんて」
そんなに不思議に思うことか?
「でもした方がいいよ。せっかくそんな感性してるんだから」
お前は何を言っているんだ?
そのまましゃがみ込んで2曲聴いたところで足が痺れたので立ち上がって食事を摂ることにした。三味線の技術についてはよくわからないが、人が通り過ぎる前で朗々と歌い上げる立ち姿は堂々としたものだった。
向かったラーメン屋はカウンター席が10ばかりL字に並んでいる手狭な店である。食券を買ってから私の座った席のちょうど隣で、若い母親とその友人がラーメンを啜りつつ、その片手間にベビーカーに乗った赤子に動画を見せてあやしているのだった。私のラーメンが来るのを待つ間、左足を豪快にベビーカーから伸ばしている赤子と遊んだ。いないいないばあと変顔の合わせ技をしたり、指をトコトコとテーブルに走らせたり、赤子の表情をまねしたり。嬰児とノンバーバルなコミュニケーションを取るのが好きだ。陳腐な言い回しだけれど、言葉がなくとも目と目で通じ合える。笑いかければそれだけでこちらに敵意がないのが正確に相手に伝わる。赤子は表情豊かでよく笑い、別れ際にはちいさな手をこちらに振ってくれさえした。
ラーメンを食べ終わったお母さんが「ありがとうございました」と別れを告げたので私も「こちらこそ赤ちゃんと遊べてありがとうございました」とこたえた。
もう二度と会うことのない人だろうから、この先の幸いを祈る言葉を送りたい、そうせねばと思って「お元気で!」と相手がお店を出る直前に口走った。「あなたも!」と返事がきて、予期せぬ言葉に、心中でしみじみ噛み締めた。
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