別の世界に生きてる隣のあなた
今日、バナナケーキを焼いた。
焼きあがったケーキを、私の住む街から隣の隣の駅が最寄りの姉に渡しに行った。五歳上の姉との仲は良くもないが悪くもない。ここ数年間はまったく違うカルチャーに囲まれて育ったせいか、暗黙知の共通言語が違うのだと思う。
兎も角姉に「バナナケーキ食べる?」とLINEでコンタクトを取った結果、「たべたいかも」との返信が寄せられた。その要望に応えてバナナケーキと、オマケに余らせていた白だしと玉ねぎと鶏肉のスープを紙袋に入れて、歯を磨き、髪をブラシで梳かし、目に付いた洋服に着替えて私は出かけた。姉の住むアパートメントに着いたのは午後の七時過ぎのことだった。
姉に銀紙でできたパウンド型とスープの入ったガラスタッパーを渡して、電気湯沸かし器でティーバッグの紅茶を淹れた。朝方にケーキを焼いてから一度も味見をしていなかったので、届けたついでに姉のご相伴に与る気満々だった。午前四時から、Twitterのスペース機能でフォロワーと四時間おしゃべりしたことを話すと、姉は嫌な顔をしていた。肝心のバナナケーキは芋羊羹のようなむちむちした歯ごたえがあり、なんだか思ってたのと違うな、と思った。初めて作ったケーキだったけれど、母がよく作ってくれた家庭の味とは明確に何かが違った。こんなにねっちりしてなかった気がする。姉は「芋羊羹を食べたことがないから分かんない。でも美味しいよ」と言ってくれた。
テレビ画面に映る姉のYouTubeアカウントは、私の見た事のないチャンネルの、私の見た事のないジャンルの動画を映し出していた。「人って、知りたいと思ったことしか知ることが出来ないよね。知らないことは知らないから、知りたいと思えないし、難しい……。一生知らないまま死んでくのも普通にあるんだろうね」名前を知らないYouTuberのVlog(今日姉に教わった言葉だ)を眺めながら私はそう言った。
紅茶のマグカップを両手に抱えた私は、思いつくまま、種々のことを話した。
モテる人とは何かの話や、『青野くんに触りたいから死にたい』という漫画の話をして、姉の新しい恋人との恋バナを聞いた。モジュールの異なる歯車のように、所々がなんだか噛み合わなかった。姉が悪いのでもなく、私が悪いのでもなく、ただ単にどうしようもないズレが生じてそうなってしまうようだった。
私が「モテるっていうのはとにかく手酷く傷つけられること」という趣旨の話をすると、姉は理解し難いという顔をして、その通りのことを言った。姉は人に好かれることで、脅かされたと感じたことがないようだった。そう感じる私の方が過敏だと思ったようで、私が例に上げた自身の体験談を「そんな人なかなかいないでしょ」と言った。それは違う、そんな人普通にいるんだよ。と訴えた。
少々の親切や相手に寄り添った言葉から、こいつ俺のこと好きなんじゃね?と勘違いをして、その勢いのまま「この前は優しくしてくれたのになんで今日はそうしてくれないんだ?」と詰め寄るような人間はおそらく掃いて捨てるくらいにはいる。私の人生には彼らは当然のように存在していた。姉も知る大きな公園のベンチで本を読んでいる時に話しかけてくる中高年の男性も、何度断ってもゴリ押しで何とかしようとする学年が上の男性も、住所の特定をちらつかせてくる同い年の男性もいた。
「違う世界の話だなって。そんなに変な人に好かれて大変そうだね」という姉の素朴な感想に少々打ちのめされた。違う世界?今目の前に私がいるのに?私が痴漢にあったことがあるのかを聞かれてノーコメントと答えた。その返答にますます心配されたけれども、それ以上は言いたくなかった。
『青野くんに触りたいから死にたい』を私が話題にあげた時、主人公の優里ちゃんが家族から受けている虐待の詳細を私が説明すると「それは流石に(現実には)ないって、漫画だからでしょ」と姉が言った。なぜかその言葉にショックを受けている私がいた。作中の優里ちゃんは、威圧的な態度と加害者への同情に支配され、部外者にも分かりやすい暴行のない、心理的な虐待を受けている。
そこに描かれたような、無惨な辱めを受ける人間が現実に居ないはずがない。家族に対して、それくらいの暴虐を尽くす人間はあたりまえに社会にいるんだ。現実の人間がフィクションで描かれているよりも、はるかに陰惨で残忍な仕打ちをしないと、どうして言えよう?脳内を口早な反論が埋め尽くしていても、何故か口にしては言えなかった。
『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』という小川たまかさんの著作のタイトルをふと思い出した。姉からすると、他人に一方的な好意を抱かれて攻撃を受ける人間も、家族から惨たらしい虐待を受ける人間も、それを語る目の前の私も、「ほとんどない」希少例の側なのだ。「ほとんどない」ことにされた側の声は、どんなに必死に訴えても嫌疑をかけられ、矮小化され、無力化され、やがてかぼそくかき消されてしまう。対岸にいる人には、どうしたってこの切実さは届かないのだと、身をもって実感した。
家族なんだから分かり合えるよ。という台詞が『青野くんに触りたいから死にたい』にとても残酷な形で登場する。当の家族に虐げられてきた人間にとって、その言葉はこの上なく惨い。家族なんだから分かり合えるんじゃないか、いつかは分かってもらえるんじゃないかと期待して、それ故に相手のことを憎みきれなくなるのだ。私が未だにいちいち落胆だのショックだのを感じてしまうのも、未だに家族なら、姉妹なら分かり合えるという幻想から抜け出せていないからなのだろう。
個人は、それぞれがそれぞれのパラレルワールドに暮らしている。見聞きしてきた世界が異なれば、経験してきた感情が異なれば、そこに聳え立つ断絶の崖はチョモランマよりも高く、溝はマリワナ海溝よりも深くなる。人は知りたいこと、知っていることしか知りえないのだから。家族でも、分かり合えないことはいくらでもあるよね。と私は言って、それに姉は同意した。その一点でもってのみ私たちは合意したのだった。
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