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栄える足元

僕は現状の目標として
一端の血の通った人として
情を知って生きたいと思っている。
また、
生きていると出来ていく
認知できる限りの責任の全てを
背負って行きたいとも思っている。

そんな「なりたい自分」とは裏腹に、
何もかも投げ出して
気ままに好きなこと興じて
自分と自分の手の届く範囲だけを
やりくりしながら過ごしたいとも感じる。

一見矛盾しているが、
これが僕の気持ちとして
本当に両立している。
違いはなさそうに見えるが、
「なりたい自分」と「やりたい事」という
欲求としての種類が異なると思っている。

人の心にある理想と欲求には
はっきりとした差がある。
長い目で見ているか、
目先のことだけを見ているかの違いだ。

身近なことで例えると、
「23時までには課題終わらすぞ〜」
とか思っていても
ゲームに時間も脳も溶かされ、
時計が半周しても何も手をつけてない状態、
これにおいて
『課題を終わらせたい』が理想で
『ゲームがしたい』が欲求だ。

『痩せてモテたい』が理想で
『腹減ったから松屋行きたい』が欲求。
『お金を貯めて将来に備えたい』が理想で
『牛めし食いたいから松屋に行きたい』が欲求。
『ちゃんと自炊して自立したい」が理想で
『早く起きたくないから
 昼は松屋で済ませてしまいたい』が欲求。
さっきのと合わせて4つ例を出したので
なんとなくニュアンスは伝わると思う。 

人生において、
前向きでいれば基本前方方向に
素晴らしい未来が見え、
そこに向かって走る気持ちが作られる。
ただし、下を向くとそこには
意外と500円玉が落ちていたり、
めちゃくちゃ綺麗に丸くなって石ころ、
ギリ抜けるであろうエロ本が落ちている。

すぐに手が届くものがあると遠くにある宝なんて
忘れてしまう程度の理性しかなければ、
基本足元ばかり富むので
走るモチベーションが消え失せる。

とはいえ足元の富に飽きれば
やがてみんな走り出す。
大抵20代まではみんなそうしてる…、
少なくとも自分の周囲は。
(そりゃ将来のために勉強して
いい大学行く人はいるのでそれは例外)

僕はそれで言うと足元がインドだった時期がある。
もう大抵の欲求を立ち上がらずに叶えられるほど
足元の小さな娯楽を集めていた。

今は周囲の人間が
僕を紐で括り付けて
一緒に宝に向かってくれているのを感じる。
でもそんなものはっきり言って
不要な荷物以外の何者でもない。
それでも引きずってくれている間、
少しでも優しさに気づけるように、
一端の血の通った人として
情を知って生きたいと思っている。
自分で歩いていくことの必要性、
歩いていく中で認知できる限りの責任の全てを
背負って行きたいとも思っている。

そんな「なりたい自分」とは裏腹に、
何もかも投げ出して
気ままに好きなこと興じて
自分と自分の手の届く範囲だけを
やりくりしながら過ごしたいとも感じる。
こんな調子だから、
足元を掬われないかが怖い。

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