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魔女と黒雪姫と冬の燕 #パルプアドベントカレンダー2023

【序】

 黒い地吹雪が舞い上がり、崩れかけた都市の輪郭を垣間見せる。吹く風は化学物質の異臭を孕む。人々は影のように、黒雪のあわいを揺らめき歩く。

 闇鍋の遥か彼方、聳え立つ高い白壁。それは混沌の原初世界を遍く照らす神の光にも似て、真白い一つの柱めいて荘厳に突き立つ。黒い雪を浴びても汚れない、戦車の125ミリ主砲弾を撃ち込んでも壊せない、天使のように気高く、要塞のように重厚な、絶望の国境線。それは壁向こうの『楽園』に住む選民と、壁の外に留め置かれた棄民たちとを隔てる文明格差の障壁だ。

 白い壁から無数の煙突が突き出し、黒い煤煙を幾重にも天に棚引かせる。

 そして楽園の外では、今日も黒い雪が……降る。

 21世紀末、ノヴォペトログラード。そこは地上に顕現した辺獄リンボ




素浪汰 狩人 slaughtercult presents
パルプアドベントカレンダー2023年作品
【魔女と黒雪姫と冬の燕】



【1】

 貧民犇めくスラム街。道端にゴミのように転がる死体を、公社の清掃員がトラックに回収していく。凍死者、餓死者、他殺体……荷台は骸で満載だ。

 路肩に停まった一台のセダン。ボロ姿の子供たちが、車内を指差し笑う。

「黒いヴォルガが停まってるぞ!」
魔女バーバヤガだ、魔女バーバヤガが乗ってる!」
狼人間ヴェルヴォリュフも乗ってるぞ!」
「きっと誰かの内臓を奪いに行くんだ!」
「地獄の遣いだ!」

 無邪気な声は、雑踏に消えた。車の運転席には、黒の覆面に軍用コートを着た大男。助手席には、毛皮のコートと毛皮の帽子をまとったスラヴ美女。

名無しの権兵衛ヴァーシャ・ププキン……過去から来た眠り男め」

 顔に傷を持つ美女・アルティナイは嘲り、ベロモール煙草に火を点けた。

「……お前、自分の過去が分かったらどうすんの?」

 覆面の大男・ヴァーシャは問われ、考え込んだ。間を繋ぐように、懐から携帯食を取り出す。包装には人型の意匠と、それを円形に囲む三本の矢印が描かれていた。人間由来の再生タンパク質に、抗プリオン薬と必須栄養素を添加した配給食糧だ。製造者は『ノヴォペトログラード人民福祉公社』。

「どうなんだ、人食いヴァーシャ。タイムマシンで過去に戻るのか?」

 再度問われたヴァーシャは、袋を開封して粘土めいた固形食を齧った。

「はむん……もぐ……タイムマシン、あるんすか?」
「あるわけねーだろボケ。物の例えだよ」

 ヴァーシャは化学的な味の固形食を嚥下し、シートにもたれて溜め息。

「……じゃあ、少なくとも元の世界に帰るのは無理そうっすね」
「だったらどうすんだよ」

 ヴァーシャは固形食の残りを口に突っ込むと、咀嚼しながら手にした空の包装を折り畳み、ドアポケットに挿した。ポケットは空包装だらけだった。

「……実際、知ったところで何も変わらんすわ。単に気持ちの問題っすよ」

 アルティナイは眉根を吊り上げ、濃い紫煙を吐いた。微かに笑っていた。

「……つまんね」
「つまんなくないっすよ。自分が何者なのか分かる前に、死にたくねえ」
「興味ねえぜ、手前の感傷なんかよ。アタシの借金返すことだけ考えてろ」

 彼女は助手席の窓を開け、吸いさしを投げ捨てる。

「アタシが興味あるのは金だけだ。出せよ。集金の時間だ」
了解ダー、ボス」

 ヴァーシャは黒いヴォルガのエンジンを始動させ、アクセルを開けた。



【2】

 剥がれかけた壁紙、タバコのヤニが染みついた天井、軋んだ金属音を立て不規則なスピードで回り続けるファン。昼間でもなお暗い食堂に、年代物の豆電球の明かりがスポットライトめいて落とされ、テーブルについた三人を照らし出す。テーブルの片側にはヴァーシャとアルティナイ、向き合うのは痩せ男のアントン。彼は俯き、両手を膝につき、二人と目を合わさない。

「旨いな。やっぱりここの料理は絶品だ。こいつは何の肉だ?」

 アルティナイは上機嫌に、スープボウルから肉の欠片を掬って問うた。

「へぇ、ええと……何の肉でしたか。豚を模した合成タンパクでしたかな」

 アントンが視線を上げ、引き攣った笑顔で応える。目が泳いでいる。

「……契約を確認するぜ」

 出し抜けにアルティナイが言い、コートの懐から紙を取り出す。胸の形に皺の寄った三つ折りの紙をバリバリと広げ、テーブルの中央に差し出した。

「貸したのは給仕係の女子メスガキ一人、預けた保証金は5000ルーブリ。ガキが三か月持たず逃げ出せば保証金は手前の物だ。代わりに、三か月働き通せば保証金は倍にして返せ。以後はガキの月給が1500ルーブリ、うち半分の750ルーブリは天引きして、ガキの親父からアタシが肩代わりしてやった借金、未払い税金ほか45000ルーブリの返済に充てるものとする……」

 アントンは彼女の話を聞いてかいないでか、虚ろな顔でマホルカタバコを紙に巻きつけ、今にも壊れそうなテーブルライターで慎重に火を点けた。

「……聞いてんのか、このボケ」
「聞いてますよ」

 女主人と食堂のオヤジが睨み合っている間に、ヴァーシャは周囲を見回し警戒した。エカチェリーナ……店主アントンのドでかい嫁さんが見えない。

「イエヴァはもういないんだ」
「……ア゛?」

 アントンの咥えた粗末な手巻き煙草から、ボタリと灰が落ちる。そのまま唇から煙草がこぼれ落ち、アントンは顔を覆うと声を上げて泣き始めた。

「イエヴァ! 可哀想な子! 買い出しに行かせたら、帰りに路地で薬中にレイプされて殺されてしまったんだ! 家まであと数十メートルの所で!」

 泣きじゃくるアントンを前に、アルティナイは白けた表情で舌打ちする。

「成る程。三か月でガキが消えたから、保証金は手前のモンってことか?」
「すいません、すいません、本当に私の監督不行届きの致す所で……」
「手前はどう思う、犬野郎」

 問われたヴァーシャは、黒覆面の顎を撫ぜてフムンと考えた。

「死んでんじゃないっすか。経緯はどうあれ、ね」

 顔を覆って泣きじゃくる店主、その指の隙間から、酷薄な眼光がこちらを見つめる瞬間を、ヴァーシャの灰色の双眸は見逃さなかった。

「……案外、そこの中に浮いてるかも」

 ヴァーシャの軍用手袋をはめた指が、スープボウルを指差す。

「えっ」

 アントンの仕草が凍りつく。ヴァーシャは懐から携帯食を出して封を開け咀嚼した。アントンはそれが何か気づき、表情を蒼褪め身震いした。

「面白くねえ冗談だ。今度言ったら頭を吹き飛ばす」

 アルティナイはそう言って銃を抜き、テーブルに置いた。ダストカバーが嘴のように先細った、強力な9×21ミリ口径のヴェクトル自動拳銃ピストルだ。

「えっ、そんな。話が違……」
「いやぁ弱った弱った。アタシの貴重な金蔓が、また一人ぽっくりと……」

 アルティナイは悠然とベロモール煙草に火を点け、アントンを凝視する。

「こんな話を知ってるか? 街で人気のレストラン、客足がひっきりなしの秘訣は何だろう? 常連のみぞ知る禁断の裏メニューだ。それは何か?」
「……一体何の話です?」
「質問してんのはこっちだよ、このボケ」

 アルティナイは紙巻きを悠然と燻らせ、アントンに紫煙を吹きかけた。

「チョウザメのスープ。注文すると、ウェイトレスのオマンコが味わえる」

 アントンが震え上がる様を、アルティナイはじっと見ていた。

「アタシの商品に手を出すヤツは、誰だろうと許さねえ、つったよなぁ?」
「な、何が言いたいのか分からないなァ……言いがかりは止めてください」

 アルティナイはアントンから目を放さず、指を鳴らして厨房を示した。

「手前ら、アタシの貸した商品を勝手に使ったろ。ネタは上がってんだよ」

 厨房の奥から、大きな金属音が響く。ヴァーシャは咄嗟に席を立った。

「死ね! 借金取り! 死ねぇーッ!」

 エプロン姿の太った大女・エカチェリーナが、消音ライフルを携え厨房を飛び出す。アルティナイが拳銃を握るが、持ち上げられない。

「黙って死んでくれ……死ね……!」

 アントンが声を震わせ、身を乗り出して彼女の手ごと銃を押さえていた。

「アントンこの野郎……!」

 アルティナイの言葉を気の抜けたフルオート連射が上書きし、立ち尽くすヴァーシャの軍用コートに9ミリの低速ライフル弾が何度も着弾する。

「ギョエエエエエエッ!」

 エカチェリーナは弾切れの銃を捨てると、刀のように大きな肉切り包丁を振り上げ、屠殺される豚めいた金切声を上げて突進してきた。ヴァーシャはハッと我に返り、まだ死んでいないことに気づいた。すかさずコートの襟を跳ね開けて拳銃を抜く。12・3ミリ口径のウダール回転式拳銃リボルバーだ。

「死ねーッ! 借金取りー! 死ねーッ!」

 ヴァーシャの右手がリボルバーを構え、迫る巨女を目掛けて一撃。

「ギョワーッ! 痛いーッ!」

 銃が反動で跳ね、巨女の身体で散弾が複数着弾し跳ね返る。ゴム散弾だ。

「どうやら、徹甲弾を買う金は無かったみたいだな。おかげで助かった」

 ヴァーシャは弾痕の刻まれたコートを翻し、エカチェリーナに接近。

「あああ神様あああッ! 痛い痛いいいいッ! 女を撃つだなんて、お前は人の心の無い冷血動物だあああ! 何でこんなことするんだよおおおッ!」

 ヴァーシャの履いた軍用ブーツが、床に投げ出された肉切り包丁を遠くに蹴り飛ばす。泣き叫んで床を転がるエカチェリーナに、ヴァーシャは拳銃で狙いを定めつつ慎重に歩み寄る。彼女はこちらの様子を窺いつつ、大袈裟に痛がって見せた。ヴァーシャは念のためにもう一発撃ち込んでおいた。

「ギョワーアアアアッ!」
「もう言い逃れできねえなクソッタレ! ガキをどこにやった!」

 アルティナイの怒声を背に、ヴァーシャは拳銃を構えて厨房に踏み込む。

「お、おおお俺のせいじゃない! カーチャが勝手にやったことだ!」
「そんな言い訳、通用すると思ってんのか! ぶっ殺すぞ!」
「痛いよ! 骨が折れた! 医者を呼んでおくれよぉ! 死んじゃうよ!」
「医者に行きてえか! 手前ら闇医者で部品ごとにバラして売っ払うぞ!」
「嫌だあああッ! 誰かあああ助けてくれえええッ!」
「暴れんじゃねえこのボケ! 今すぐあの世に送ってやろうか!?」

 ヴァーシャは厨房を見回す。ただの厨房だ。めぼしい物はない。流し台を横目に通り過ぎようとして、血の付いた包丁が目に留まり、足を止める。

「……まさかな……」

 業務用冷蔵庫を開いた。ポリ袋入りの骨付き肉が多数。ヴァーシャは唇をぺろりと舐め、肉を順番に指差した。冷蔵庫の奥に何か入っている。左手を突っ込み、密封瓶を取り出した。新鮮な肝臓だ。大人の物にしては小さい。

「言わんこっちゃない」

 ヴァーシャは呟き、冷蔵庫の片側の戸を閉じ、逆側の戸を開けた。

「ん?」

 そして、目が合った。金色のキラキラ輝く猫目。トパーズのような褐色の滑らかな肌と、サラサラとした黒い短髪。両腕で膝を抱えた黒服の少女。

「こっちは食材じゃなさそうだな」

 金色の瞳が動き、こちらを見た。ヴァーシャは褐色少女を引きずり出す。

「……ん?」

 ヴァーシャはキンキンに冷えた褐色少女を左肩に担ぎつつ、異様な感触に違和感を覚えた。軽いな。重心のバランスも妙だ。何だか人間らしくない。

「……人形か、もしかして」
「アントンこの野郎! 白状しねえと、頭から脳味噌ぶちまけるぜ!」
「そんなこと言われても! イエヴァはもうどこにもいないんですよォ!」

 ヴァーシャは一応ゴミ箱も開けてみた。雑多なゴミに紛れて、何か暗色の物体が入っている。躊躇いなく引っ張り出す。血の付いた栗色の髪の毛だ。

「ボス! 女の子って、確か栗毛でしたよね!?」
「でかした犬野郎! 見つけたんならさっさと連れてこい!」
「いやぁまあ、ボスは見ない方がいいと思いますがねェ……」
「何ワケの分かんねーこと言ってやがる! 今アタシは機嫌が悪いんだ!」

 ヴァーシャは溜め息をついて厨房を離れると、食堂に戻った。ぐったりと手足を伸ばした褐色少女を担ぎ上げ、肝臓入りの保存瓶を片腕に抱えて。

「おい! そいつはアタシの帳簿にゃ入ってねえぞ! どこで拾った!」
「冷蔵庫の中に入ってましたぜ?」

 アルティナイはヘッドロックして拳銃を突き付けたアントンに、問い質す顔で視線を投げた。アントンは声も出せずに首を振り、ブルブルと震える。

「この不吉な黒猫め! 出て行けと言ったのに戻ってきたのか!」

 エカチェリーナが顔だけ振り向いて目を見開き、鶏が〆られるような声できゃんきゃんと喚き散らす。軍用ブーツが踏み潰すように顔を直撃した。

「どういうことだ。攫われてきたわけじゃないのか」

 ヴァーシャが問うも、少女は答えない。弱々しく部品の動く音が鳴る。

「ゼンマイ切れか、お嬢ちゃん」
「犬野郎! ガキは一体どこにいんだよ!」

 アルティナイに問われたヴァーシャが、思い出したように瓶を掲げた。

「ああ、ほら持ってきましたよボス。いるでしょ『ここ』に」

 ごぼん。と大瓶の中で気泡を上げる、ウォッカ漬けの少女の肝臓。

「お、おい……そりゃ何の冗談だ」
「ご愁傷様ですね。きっとボスの胃の中にも居ますぜ」

 アルティナイが唇から煙草を落とすと、露骨に狼狽えた。

「そ、そ、それじゃあ、アタシが食ったのって、もしかして……」
「イエヴァのスネ肉は旨かったかい?」

 皮肉っぽく嘯くエカチェリーナ。アルティナイの銃声。アントンの頭頂を弾が掠め、彼は失禁した。アルティナイはテーブルを蹴り飛ばし天を仰ぐ。

「……ぬ゛お゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」



【3】

 鄙びたアパートの一室。散らかったリビング。ヴァーシャは床に新聞紙を広げて、仰向けに横たえた褐色少女を開封して弄っていた。アルティナイはベッドに座ってヴォトカを呷り、さっきから何事か呟いている。

「あの子、売春宿に売られてた方が長生きできたかもしれないっす……」

 ヴァーシャが言い終わる前に、壁に酒瓶が叩きつけられ、砕け散った。

「だったら何だ! 結果論なら何とでも言えるだろが、このボケ!」

 枕、雑誌、軍用糧食、ショーツにブラジャー、様々な物が飛んでくる。

クソがブリャーチ。気分が悪いぜ」

 アルティナイは苛立ち混じりにベロモール煙草を咥え、火を点けた。

「機嫌直してください、ボス。最低限の金は返ってきたじゃないすか」

 ヴァーシャは顔を覆った金のブラジャーを剥ぎ取り、放りながら告げた。

「大人二人の身体で5000ルーブリ! 保証金にしかなりゃしねえぜ!」

 彼女はそう言って、苛立たしげに紫煙を吐き散らした。

「ガキの借金45000ルーブリは闇の中、誰が埋め合わせんだ!」
「連中のヘソクリが10000ルーブリ、隠し持ってた覚醒剤をかき集めて10000ルーブリ、俺たちを殺そうとした消音銃が25000ルーブリ」

 ヴァーシャは機械仕掛けの臓物を慎重に漁りつつ、数字を諳んじる。

「……ほら、元が取れた」

 煙草の吸いさしが投げられ、ヴァーシャの側頭部で跳ねて落ちた。

「利息が付いてんだよ利息がよ! トントンじゃ意味ねえだろ!」

 ヴァーシャはまだ煙の燻る吸い殻を素手で抓み、揉み消して放り捨てる。

「……鮮度抜群の子供の肝臓、40000ルーブリ」

 アルティナイは何か思い出したように呻き、便所に走った。ヴァーシャは床を這ったケーブルの偏りを取るように指で扱くと、人形に呼びかける。

「喋れるか。何が壊れてるか言ってみろ」
発電機ジェネレータがもう駄目ね。電池バッテリーも弱ってる」

 傍らに置かれた大型の可搬式充電池、その出力ポートから伸びる充電用のケーブルが、開封された褐色少女の充電ポートに差されていた。少女の腹の点検用入出力ポートから伸びたケーブルは、時代がかったノートパソコンの汎用入力ポートに接続されて、彼女の思考を外部に音声出力していた。

「正規品は無理だろうが、闇市に行けば汎用品なら手に入るかも」
「関節もあちこち駄目になってるわ。基盤の導通も怪しい所がチラホラ」

 背後の壁の向こうで、ビチャビチャと陶器を打つ飛沫の音が聞こえた。

「俺は人形技師じゃないんでね。最低限、抜き差しで治る物しか触れない」
「……使えない男」

 横たわる少女が、金色の瞳でじろりとヴァーシャを射抜いた。

「あなた、名前は何て言うの?」
「ボスからは良く犬野郎って呼ばれる」
「貴方それ名前じゃないわよ」
「知ってる。またの名を名無しの権兵衛ヴァーシャ・ププキン。これも名前じゃないが」
「呆れた。あなた、名前が無いの? 親に捨てられた孤児みなしごちゃんなの?」
「正確には無いんじゃなくて、思い出せないんだよ」
「まさかの知恵遅れ? 三歩歩けば、自分が誰かも忘れてしまう鳥頭だから親兄弟にも捨てられたのね。人間の屑に一生搾取され続ける哀れな人生」
「口の悪いガキだな」
「ガキ? 自慢じゃないけど、貴方たち下手な人間より長生きよ、私って」

 ヴァーシャは眉根を寄せて電池を外そうと手を伸ばすと、金の瞳が睨む。

「待って。先にシステムを停めないと壊れるわ。人間と違って繊細なの」

 どたどたと足音が響き、背後から飛んで来た空のポリ容器がヴァーシャの後頭部を直撃、へぼい音を立てて跳ね返り、転がって行った。

「いてっ」
「おい犬野郎! 手前いつまで人形とままごとしてるつもりだ! 宿なしの野良犬が、汚い野良猫なんぞ連れ帰って来やがって! 早く捨ててこい!」
「あんたのご主人も相当口悪いわよ」
「俺ぁ気の強い女が好きでね」
「女の趣味が悪いわ。考え直しなさい」
「無視してんじゃねえボケ!」
「ねえヴァーシャ」
「何だよガキ」

 少女はカリカリと頼りない音を立てて首を動かし、金の瞳で射抜いた。

「……信じていいのよね」
「信じるって、何を」
「だから聞けよ手前ら!」
「眠りについたら、二度と目を覚ませないかも」
「人間だって一緒だそんなの。俺だって目覚めたらウン十年後の未来に居て困ってるんだぞ。眠るまでの経緯も覚えてねえ、自分が誰かも判らねえ」

 少女は言葉を失い、当惑するように視線を泳がせた。

「でも……人形と人間は違う」
「何の話だ」
「だからお前ら!」
「私は人間として死にたいの。人形のまま壊れて終わりたくない」
「どういう意味だ」

 要領を得ないヴァーシャの背後から、腕が伸びて首を締め上げる。

「ぐげっ……ちょ、ボス……! ギブギブギブ!」

 酒と煙草の混ざった生臭い息が、ヴァーシャの背後から吐きかけられる。

「このクロンボ捨ててくるか? 捨ててこねえか? 答えによっちゃ」
「マルーシャよ」
「あん?」
「私の名前。クロンボじゃなくてマルーシャ」
「知らねえよそんなモン! 人形が喋んじゃねえ、気色悪い!」

 アルティナイは叫び、両足をヴァーシャの腰に掛けて横倒しにした。

「機械の修理は、俺の数少ない娯楽ですよ! 少しはいいでしょう!」
「車や武器とは訳が違うだろうが! 何の労働生産性もねえ!」
「余暇の手慰みじゃないですか! 労働者の権利っすよ!」
「慰めてえのは手前の一物じゃねえのか、そんなに抜き人形ダッチワイフが欲しいか!」
「あんた一体何を勘違いしてんすか、ボス!」

 パソコンのスピーカーから溜め息が聞こえた。

「……あんたらのお笑いに付き合ってたら、こっちまで馬鹿になりそう」
「あんだぁこのガキタレ、舐めてっと売り飛ばすぞ!」
「もうどうにでも好きにして。少し寝るわ。治ったらまた起こして」

 それきり褐色少女の人形・マルーシャは応答を止めた。寝技にかけられたヴァーシャの背後で、アルティナイも器用な体勢のまま眠りに落ちた。

「……クソ阿婆擦れどもめスーカ・ブリャーチ!」



【4】

 黒覆面に軍用コートの大男が、人肉プロテインバーを片手間に食べながら路上を闊歩すると、通行人たちは無言で道を開けた。AK自動小銃を担いだ二人一組の自警団員も、ヴァーシャを横目に見て見ぬふりで通り過ぎる。

「人肉バーを食ってたぞ」
「あんなもん、場末のプータローすら食いやしねえ」
「薬のやり過ぎで脳がイカれた気違いか、血に飢えた獣かどっちかだぜ」

 彼らはヴァーシャの横を側を通り過ぎると、背後でヒソヒソと話した。

「俺に何か用か?」

 ヴァーシャがそう言って振り返ると、背後で煙草に火を点けた自警団員が目を逸らし、銃の安全装置を音を立てて外すと、そそくさ歩き出す。

「……私は人間として死にたいの、人形として終わりたくない、か……」

 ヴァーシャは空の包みを折り畳みつつ、少女人形の言葉を反芻した。

「まあ何にせよ、使える機械は治して動かす。俺にできるのはそれだけだ」

 ポケットに空包装を押し戻すと、汚れた黒い雪に白い息を吐き歩き出す。

「なあ旦那! 煙草くれよ!」

 身なりの汚い浮浪者が歩み寄り、調子の外れた大声でヴァーシャに叫ぶ。

「悪いな、煙草は吸わないんだ。他を当たってくれ」

 ヴァーシャが浮浪者を一瞥もせず手を振り断ると、浮浪者は腹を空かせた野良犬のようにヴァーシャの周囲をうろつき、視界に入ろうと躍起になる。

「『求めよさらば与えられん』と聖書も言ってるぜ!」
「『隣人の家を欲しがってはならない』とモーセの十戒にもあるぜ」
「たった一本だろうが! 何でくれないんだ! ケチのユダヤ人め!」
「俺がユダヤ人なら、手前は供物の上前を跳ねるレビ人ってとこだな?」

 ヴァーシャがそう言って携帯食を差し出すと、浮浪者は叩き落とした。

「俺を舐めてんのか!? 仕事のねえ貧乏な宿なしだから舐めてるな!?」

 ヴァーシャが舌打ちして通り過ぎようとすると、浮浪者がガードした。

「俺は手前の心無い侮辱に傷ついた! 慰謝料に煙草一箱要求するぜ!」
「何で数が増えてんだよ! さっきは一本だっただろうが!」
「貴重な俺の人生の時間を拘束したせいだ! 時給が発生してんだよ!」
「この業突く張りのゴミ虫め! 欲しけりゃ働いて自分の金で買え!」

 ヴァーシャはそう言って逆方向に躱し、浮浪者が再び遮り、また逆方向に躱して浮浪者が遮りと、パントマイムのような奇妙な掛け合いになった。

「俺は仕事をしないんじゃない、仕事が俺に相応しくないんだ!」
「だったら一生そうやって言い訳してろや!」

 ヴァーシャがくるっと踵を返して来た道を戻ろうとすると、それを察した浮浪者は逃がすまいと素早く回り込む。珍事に周囲では見物人が現れた。

「こうなったら、煙草が貰えるまでお前に付きまとってやるからな!」
「しつけえ野郎だな! 俺の堪忍袋にも限度ってモンがあんだぜ!」

 ヴァーシャは業を煮やして浮浪者を弾き飛ばし、悠然と歩き出す。

「最初からこうしときゃ良かったぜ」
「ちくしょう……俺様を舐めたらどうなるか、思い知らせてやる!」

 浮浪者は恨みがましい目で見上げ、大声で怒鳴り散らした。

「こいつ大金持ってるぞ! 100000ルーブリだ! 俺は見た!」
「……この野郎!」

 ヴァーシャが毒づくも、銃を持った自警団員が沸いて出てきた。

「へっへへ。ざまあ見やがれチーキ・ブリーキ!」

 浮浪者は心から清々しい捨て台詞を吐き、逃げ足早く走り去っていく。

「おいそこのお前! 動くな!」
「お前には犯罪の容疑がかかっている! 変な物持ってたら押収するぞ!」
「親愛なる自警団員諸君、そこで何をしているんだね?」

 群衆の横合いから現れた男が、深紅のコートを翻して立ち塞がる。同時に私服の護衛二人がヴェレスク短機関銃を抜き、忠実な猟犬じみて進み出た。

「何だ貴様らは!」
「この自警団の紋所が見えねえのか! 射殺するぞ!」

 自警団員たちがAKを構え、音高く初弾を装填するも、ヴァーシャに背を向けて立つ男は芝居がかって両手を広げ、せせら笑うように言った。

「君たちの方こそ、私の顔に見覚えが無いのかね?」

 男の泰然自若な言葉に、自警団員たちが足を止め、銃口を上げた。

「……新興貴族オリガルヒのマクシーム・コンスタンチノフ!?」
「自警団の雇用主スポンサーじゃないか!」
「どうしてこんなところに居るんだ!?」

 パチパチパチ……男は音高く拍手すると、懐から葉巻を取り出し、颯爽と吸い口をカットする。金色のライターで火を点すと、紫煙を燻らせた。

「素晴らしい記憶力だ。近頃は団員の質も落ちたものだな。殺せ」

 パパパン、パパパンと甲高い連射音が響き、集まった雑踏が悲鳴を上げて壊走。集会は一瞬でお開きになる。後には自警団員の死体が遺された。

「何も殺すこたぁねえだろ」
「連中に集られていたのは君じゃないか? そしてそれを助けたのが私だ」
「そいつはどうも」
「私に感謝こそすれども、文句は言う筋合いは無いだろう?」

 深紅のコートのオリガルヒ、マクシームはそう言って振り返り、髭の濃い渋みのある顔に凄みのある笑みを浮かべ、低い声でヴァーシャに諭した。

「いいや、俺は言うね」
「……面白い男だ。人食いヴァーシャ、過去から来た眠り男」
「俺のことを知ってるのか?」
「アルティナイから噂はかねがね」
「ボスから? どういう繋がりだ?」

 ヴァーシャが一歩進み出ると、猟犬たちが小さな短機関銃を油断なく構え主人の隣を抜けて飛び出す。彼らの歩みをマクシームが止めた。

「銃を下ろせ。彼は私の友人だ」

 護衛たちはピタリと足を止めると、アイコンタクトして銃を仕舞った。

「よく訓練されているだろう。信頼できる兵たちは何物にも代えがたい」
「ご満悦のところ悪いが、俺はあんたを知らないぜ」
「だが私は君を知っている。そして我々には共通の知人がいるはずだ」
魔女バーバヤガ……アルティナイ……」

 マクシームは軽やかに指を鳴らし、紫煙を吐いてヴァーシャを指した。

「いかにも。彼女は私の友人……大事なビジネスパートナーの一人でね」

 マクシームは骨格の太い身体で豪快に踏み出し、ヴァーシャに歩み寄ると顔の覆面を外した。灰色の髪に灰色の瞳の、頑ななスラヴ人が現れた。

「いい面構えだ。野性味の強い狼犬のように。あの魔女バーバヤガもよく手懐けた」

 マクシームは満足そうな笑みで、ヴァーシャに覆面を戻すと肩を叩いた。

「我々は仲良くすべきだ。我々にはその価値がある」
「買い被り過ぎだぜ。俺はあんたのような王様が関心を払うタマじゃねえ」
「関心を払うかどうかは私が決める、生かすも殺すも私次第ということだ」

 マクシームはそう言うと、もう一度ヴァーシャの肩を叩いた。

「君は忘れるべきではないな、そこで斃れた愚か者たちのように」

 マクシームが憐れみを湛えた眼差しで、射殺した自警団員を見下ろす。

「今日は君に、それを伝えられたら良かった。君が私の側にいることをね」

 胡散臭い野郎だな。ヴァーシャは心の中で毒づく。

「……ああそうだ、物のついでだから君にも言っておこう。『黒い人形』」
「黒い人形? 何だいそりゃあ」
「見たままの代物さ。説明は要らない。知らないなら、見れば分かる」

 マクシームはそう言って、葉巻の紫煙をふうと吹かした。

「見つけたら、私に教えて欲しい。現物もついてくればなお良し」
「ボス……アルティナイは知ってるのか? そのことを」
「君から伝えておいてくれたまえ」

 マクシームは深紅のコートを翻し、片手を上げて颯爽と歩き出す。

「そんな物、なぜ欲しがる?」
「君が知る必要はないが、高給は約束しよう! 朗報を期待しているよ!」

 護衛たちがマクシームの背中に立ってヴァーシャを睨み、彼の後に続く。

「……何だか面倒臭えことになってきたな」

 ヴァーシャはそう言って白い息を吐くと、闇市を目指して駆け出した。



【5】

 アパートのベッドで、毛布を被ったアルティナイが幸せそうに眠る。

「金……金……億万ルーブルの札束風呂だ……うっへへへ……」

 リビングの床では、ヴァーシャが油塗れの指でマルーシャの開封した腹を組み戻し、部品の取付忘れが無いことを確認してから、完全に蓋をした。

「……こいつスイッチが見当たらねえな。どうすりゃ起きるんだ」

 工具やケーブルが並んだ傍らには、古い発電機と電池が転がっていた。

「『起きろ』……なんてな」

 ヴァーシャが指を立てて言うと、マルーシャがかっと目を見開いた。

「マジかよ」

 暫くシステムチェックと思しき間を置くと、褐色の少女人形は自律動作で上半身を持ち上げた。金色の瞳がヴァーシャを射抜く。

「部品が古くて探すのに苦労したぜ。ジャンク屋を十軒も巡って、汎用品のリビルドの発電機が手に入った。電池は出所不明の中古で我慢してくれ」
「……礼は言わないわ」
「構わねえよ。ただの趣味さ」

 ヴァーシャは朴訥と返し、指を拭くとヴォトカを瓶からラッパ飲みする。

「……ところでお前、何に追われてんの」

 マルーシャは目を真ん丸に見開き、視線を逸らした。

「別に俺は興味ねえけどよ。逃げるなら、早くした方がいいぜ」

 ヴァーシャは素知らぬ顔で出口を指差す。

「どういう風の吹き回し?」
「お前を探してるってヤツに、街で助けられた」
「助けられた?」

 ヴァーシャは憮然とした顔でヴォトカを飲むと、小さく息をついた。

「……マクシーム・コンスタンチノフとかいう嫌味な野郎だ」
「マ、マ、マ、マクシーム!」

 背後のベッドで、アルティナイが毛布を跳ね除けて起きる。ヴァーシャとマルーシャが視線を向けると、アルティナイは再び崩れ落ちて眠り込んだ。

「……ぐがー」
「それで、その男は何者なの」
「この街を〆てる兵隊の雇い主だとよ。俺も良く知らねえ。アルティナイのビジネスパートナー、とか言ってたが怪しいもんだ。ボスがやべえヤツから多額の借金をしてるって、前に聞いたことがある。多分そいつだろうな」
「ハ? あいつ借金取りなのに、借金を取られてるわけ?」

 マルーシャは猫のように這い寄り、ヴァーシャにずいっと顔を寄せた。

「……悪党な生き方もタダじゃねえ。自由に生きてりゃ、弱肉強食の世界に組み込まれる。自分より強いヤツに毟られるか、殺されて毟られるか」

 ヴァーシャはそう言いつつ、11式小型拳銃を取り出すと、マルーシャの黒服の腰に突っ込み上着で覆い隠した。マルーシャが怪訝な顔で睨む。

「やるよ。事情が良く分からねえが、お前には必要だろ」
「……それで、そのマクシームって男は何て言ってたの?」
「お前を追ってる理由は教えなかった。ただ見つけたら高給を払うと」
「黙って見逃がしてくれるかしら」
「見なかったことにしてやるから、さっさと行けよ」
「貴方の後ろに居る人のことよ」

 マルーシャが金色の瞳を細め、ヴァーシャの肩の向こうを見つめる。

「ボスはお前が金になると知りゃ、喜んでマクシームに首を差し出すだろ」
「ああ正解だ、このボケ」

 ヴァーシャの後頭部に9×21ミリの銃口が押し当てられた。

「映画の主人公気取りか? この犬野郎。恰好つけてんじゃねえぞ」

 ガチリと撃鉄が引き起こされる。ヴァーシャの脇の下に冷や汗が這った。

「自分の過去が分かるまでは、死にたくなかったんじゃねえのか?」

 マルーシャは懐の銃を躊躇なく抜き、ヴァーシャの肩の向こうに構えた。

「このクソガキ……」
「黙って見逃がしてくれない? 行かなきゃいけない場所があるの。それと物のついでで悪いんだけど、この人も少し借りてくわ。助手が必要なの」
「は? 俺の同意なしで勝手に決めんなガキ」

 アルティナイは舌打ちして銃を上げ、煙草に火を点ける。

「一晩だけ待ってやる。明日の朝にはチクるぜ」
「交渉成立ね」
「ちゃんと利子付けて返せよ」

 両手を上げて立ったヴァーシャの頭を小突き、アルティナイは言った。

「こいつにゃまだ借金が残ってんだからよ」



【6】

 宵闇迫るノヴォペトログラード。黒いヴォルガはスラムを抜け、市街地を抜けて、黒い雪の降り頻る荒野をひた走る。立ち枯れた木と汚れた大地とが延々と続く不毛の原野だ。降り積もった黒い雪が巻き上げられ立ち込める。

「どこまで行くつもりだ」
「黙って走って」

 自分の渡した拳銃に脅され、ヴァーシャは沈黙する。懐から携帯食を出し口で包装を食い破ると、化学味のする粘土のような固形食を齧った。

「この先は何も無いぜ」
「黙って行ってって言ってるでしょ」
ちくしょうブリャーチ!」

 ガタガタの下り坂、砂利道を駆け抜け、一面が黒一色の凍った湖を走る。

「どこ走ってっか分かんねえよ。どこに向かってんだ?」
「見えるでしょう」
「ハ?」

 マルーシャは褐色の指を伸ばし、黒い雪の彼方に突き立つ白壁を示した。

「おいまさか……」
「城壁が全周に渡って警備されているというのは嘘。部分的に穴があるわ」
「お前、『楽園』の中から来たのか?」
「楽園なんて名前、欺瞞ね。実態は人口減と重税に喘ぐ斜陽の管理社会よ」
「そんなの、俺の知ったこっちゃないぜ」
「奇遇ね。私もよ」

 凍った湖面の凹凸に乗り上げ、車がガクンと揺れた。その直後、飛来した一筋の曳光弾が湖面に突き刺さると、ミラーの向こうで火花を散らした。

「話が違うぞ、警備には穴があるんじゃなかったのか!?」
「徒歩と車の違いね。どうやら城壁の警戒レーダーに引っかかったみたい」
「馬鹿野郎、目的地に辿り着く前に死んじまうよ!」
「そう思うなら死ぬ気で突っ走って」
「……クソ阿婆擦れめスーカ・ブリャーチ!」

 一面、何も遮る物の無い凍った湖で、黒い吹雪が荒れ狂い牙を剥く。

「吹雪まで来やがったぜ! 運がねえ!」

 ヴァーシャは弾に当たらぬことを願い、出鱈目にハンドルを捻りながらもアクセルを全開にした。14・5ミリ口径の曳光徹甲焼夷弾が、闇の中から遠雷のような衝撃波を連れて襲来し、時たま車体を掠めては湖面で弾ける。

クソーッブリャーチ! クソーッブリャーチ! クソーッブリャーチ!」
「吹雪で火器管制レーダーの精度が落ちてるのかも。貴方、ツイてるわ」
「他人事みたいに言ってんじゃねええええッ!」

 バゴオオオオンッ! アイスキャンデーのように巨大な光の槍が一直線に襲い来て、フロントガラスのど真ん中を直撃。ヴァーシャとマルーシャとの間を、地獄の炎のような焼夷剤の火花が吹き抜けて、徹甲弾がリヤガラスを貫通し飛び去る。ひび割れた窓ガラスから、肺まで凍る冷気が吹きつけた。

「うおおおおおおッ!」

 恐怖でハンドル操作を誤ったヴァーシャは、スピンする操縦不能な車体の出鱈目な視界の中、花火のように飛び交う曳光徹甲焼夷弾に死を覚悟した。

無問題よチーキ・ブリーキ! ブレーキは踏まないで! アクセルを開けて!」

 ヴァーシャはアクセルを踏んで増速した。銃身から離れた高速弾のようにトラクションが安定し、ヴァーシャはハンドルを切って車体を立て直す。

 白い壁が眼前に迫り来る。ヴァーシャは湖の対岸まで一息に駆け抜けた。



【7】

 室温は低く、部屋は薄暗い。天井の非常灯が瞬き、光と影を投げかける。

「答えてよ、ヴァーシャ。私は何のために生まれてきたの」

 問いは、コンクリートと闇の狭間に吸い込まれて消えた。生命維持装置の無機質な稼働音だけが響く。ヴァーシャは溜め息がちに、白い息を吐いた。

「……生まれたことに意味なんてないさ」

 ガラスの棺に横臥し、生命維持装置に繋がれて眠る、痩せこけた少女。

「ねぇ。人間の条件って、何だと思う」

 ヴァーシャの隣で、マルーシャが問うた。

「考えたこともねえよ」

 マルーシャはガラスの棺に手を伸ばし、棺の縁を慈しむように撫でた。

「生きること。生まれて、生きて、そして死ぬこと」

 褐色の指が拳を成して、ガラスの棺をどんと叩いた。

「死を忘れて永遠に生き続けるなんて、そんなの機械か人形と同じよ」

 どん、どんと褐色の拳がガラスの棺を叩き、マルーシャは項垂れる。

「有機コンピューティング。人体の神経を演算装置に転用した技術の苗床が私の本当の姿よ。公社の権力争いで計画は中止され、私は忘れ去られた」

 ヴァーシャは何か言おうとして止め、口から白い息だけがこぼれた。

「……時の流れって残酷よ。生命維持装置に繋がれたまま老いた、子供でも大人でもない体。外に出れば、どうせ長くは持たないわ」

 マルーシャが袖を引く。ヴァーシャは隣を見下ろす。褐色肌の美貌の奥で偽りの金星のように煌めく金色の双眸が、期待の眼差しで見上げていた。

「だから、ここで終わらせて」

 ヴァーシャは躊躇いがちに、懐からウダール拳銃を抜いた。回転式弾倉を開くと、ポケットから取り出した鋼鉄芯の徹甲弾を五発押し込み、閉ざす。

「……俺は一体、何のために目覚めたんだ」

 ヴァーシャは棺に銃口を向け、引き金に指をかけて躊躇う。マルーシャは命の無い模倣物の美貌に、今までで最高の笑顔を湛えて答えた。

「貴方に会えて良かった」
「……身勝手な女だよ、お前も」

 ヴァーシャは拳銃を五回弾いた。ガラスの内側が血飛沫で染まった。

「あ……りが……と……」

 マルーシャが膝から崩れ落ち、ヴァーシャの手から拳銃が滑り落ちる。

「……帰るか」




【魔女と黒雪姫と冬の燕】




 この話は、以下のプロジェクトに投稿された物です。

 この話はフィクションである。


From: 素浪汰狩人 slaughtercult
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