浪人して良かったって言うけれど...

浪人はいい経験だったと言う人を時々見かける。僕自身1年間浪人したことがあるので、浪人したことに意味を見出したくなるのもわかるが、それでもこういった発言がとてつもなく嫌いだ。浪人したことが良い経験だったと清々しく述べてる人をみると、多分この人とは気が合わないんだろうなって感じてしまう。今日はこの気持ちの根源を整理していきたい。

1. なぜ浪人は良い経験だったといいたがるのか?

浪人は良い経験だったと言う人に、なぜ?と聞くと、考え方が変わったからと言う人が多い。高校生の頃はあまり将来のことを考えていなかったが、浪人することで色々考えるようになった、成長したってということらしい。
自分が高校で共に過ごしてきた友達が大学で彼女作ったり、旅行行ったりしている間、浪人生はひたすら予備校にこもっている。浪人している間は、やりきれない思いや自分や親に対する後めたさがどんどん膨れ上がっていくのに、やれることは、ただ大学入試で良い点を取るための勉強だけ。湧き上がってくる思いは大きいのに、自分の取れる行動はとても少なく、窮屈だ。このアンバランスな状況にいると、ストレートで大学に入った人に対して、なにくそって感情を抱くものだし、彼らより何か優れたことを成し遂げたい、負けたくないって思うものなのだろう。だからこそ、大学で楽しんでいたはずの一年を使って、大学入学後の自分の身の振り方について高校生よりも真剣に考える。確かに、浪人することで、自分の将来に対する緊張感は高まるのだろう。

2. では、なぜ「浪人して良かった」って発言に嫌悪感を抱いてしまうのか?

僕はこの発言に対し、ある種の妥協を感じてしまうのだ。浪人して成長できたって人は、高校生の頃の何も将来について考えてない自分と、浪人したことでこれからをよく考えた始めた自分とを比べて、成長したと実感している。まずこの点に違和感を感じてしまう。年齢が違う人どうしを比較すべきでない。比較するなら、大学生になっていた自分のはずだ。大学にストレートで合格していたら、一年間受験勉強以外のことに費やせたはずである。自分は予備校に篭っていただけの一年間を過ごしたというハンデを負っているはずなのに、なぜか浪人して良かったって人はそれを度外視している。

さらに、「なぜ成長したって言い切れるのか?」という疑問もある。確かに、浪人という特殊な経験をしたことで自分に変化は生じただろう。でもそれが、成長だった、ポジティブな変化だったって、どうして判断できたのだろう? そんなことは、自分が何かを成し遂げてやっと評価できることなのに、浪人して良かったって言っている人の多くは、結果に基づいた根拠なしにそれを成長と呼んでいることに恥ずかしさも何も感じていないようだ。

本当に、自分の将来やりたいことがある人が浪人してしまった場合、このようにはならないであろう。浪人している間、自分と同じ目標に向かっているライバルに対して負い目を感じるはずだし、浪人期間にライバルと差がついてしまった、自分の目標に向かって費やせる時間を無駄にしてしまった期間と捉えるだろう。本当に強く自分の将来を想っている人は、大学に入学が決まってからは、その失われた時間を取り戻そうとその目標に向かって走っていくし、浪人して良かったなどとは言わないはずである。

要するに、浪人して成長したっていうことは、自分の将来に対する考えが甘いのに、自分では真剣に考えるようになったと勘違いしていることを恥ずかしげもなく周囲に公言しているようなものなのである。こうした人に僕は「ずれ」を感じてしまう。こういうずれに鈍感な人は自分の経験をポジティブに捉える習慣がついてしまっており、さらに自分の価値観を押し付けてくる傾向があるようにみえる。やっぱり僕はどうしても嫌悪感を抱いてしまう。




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