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地球の細胞

*写真はギャラリーから拝借しました

京都大学のオンライン公開講義が面白い。先生方の丁寧で、わかりやすい講義を聴いていると、自分の乏しい想像力が、頭のなかで一生懸命羽ばたこうとする。先日の講義では、もしかして”人類は、一個の生命体としての地球に寄生するウィルスのようなもんじゃないか“という想像が羽ばたいてしまった。あんまり優秀な聴講生とはいえないけれど、まあ、いいか。
 
瀬戸口明久准教授の「『災害』の環境史:科学技術社会とコロナ禍」を聴講して

ヒトと感染症の環境史というトピックのなかで、そもそも感染症とは何なんだ? という、とてもわかりやすい説明があった。寄生虫が原因のこともあるが、”主に細菌やウィルスなどの微生物によって引き起こされる”のが感染症。

細菌とウィルス。
ちょっと待って。職場の子どもたちに手洗いを促すときに、

「細菌には、ヒトの体を守ってくれるよい細菌と、病気になるわるい細菌があるんよ」

という話をよくするんだけど、細菌とウィルスのちがい、わかってるか、自分? わかってない。で、検索してみたら、真菌、細菌(バクテリア)、そしてウィルスの違いについての、これまたわかりやすい記事を見つけた。

真菌は我々と同じ多細胞生物、バクテリアはその身体の一つの細胞が飛び出して独立して生きていけるもの、そしてウイルスは、その細胞の中の遺伝子が細胞から飛び出して゛独立“したようなもの、と説明しています。もちろん遺伝子だけだと何もできませんから、細胞の中に入ることで初めて活動できるのがウイルスなんですよ。―中略—核酸とタンパク質の複合体がウイルスに共通するコアな構造ということになります」(神戸大学大学院農学研究科・中屋敷均教授/https://emira-t.jp/special/7814/)


だから、ウィルスは宿主(シュクシュ)を必要とするのか。ただ、瀬戸口准教授によると、これらの眼に見えない細菌やウィルスは、生命の歴史的観点からみると、

あらゆる生命と共存してきた微生物で、現在も、わたしたちの体のなかに厖大な量の細菌、ウィルス由来の遺伝子がある”らしい。

細菌が私たちの体のなかにあるのは理解できるけど、ウィルス由来の遺伝子がわからない。ウィルスは最初から病原性があるとは限らないっていうことかしら? と疑問に思ったところへ、瀬戸口准教授が

「ウィルスは、進化の歴史のどこかの段階で、病原性を持つようになった」

のだと仰る。
え? 進化の歴史のどこで、どんなふうに、ウィルスは病原性を持つようになったの? そもそも“ウィルス由来の遺伝子”ってなんだろう? 
後で調べると、前述の記事に説明があった。

「子宮の胎盤形成に必須の遺伝子の一つがウイルス由来のもので、胎盤の機能を進化させるうえで重要な役割を果たしていることが知られています。現在でも、その遺伝子がなければ胎盤は正常には作れません」(神戸大学大学院農学研究科・中屋敷均教授/https://emira-t.jp/special/7814/)

自分にとっては青天の霹靂的情報だった。
ウィルスが病原性を持つようになるのには、実は宿主の生活形態に大きくかかわっていて、「大きな集団をつくるときに、初めて微生物は病原性をもつようになる」そうだ。

そして、宿主が死ぬとウィルスは生き残れないが、集団生活では、ウィルスが次から次へと宿主を見つけて生きのびることができる。感染とはこういうことなのだ。当たり前のようだけど、明確な定義を適切な言葉で聞くと、理解できたと感じる。

感染症の歴史は、人間の農業の歴史と同じくらい古いらしい。定住農耕で集団生活が始まり、家畜を飼い始め、ヒトはこの地球上で生活空間を広げてきた。南極をのぞいて、大陸のほとんどの地域に、ヒトは生息分布を広げてきた。これがほぼ一万年前。“自分たちが生き残る”という点では、ヒトは成功した生物と言えるそうだ。

ただ、地域ごと島状に分布し、広範囲に生活していた時代は、ある程度の集団間の交易があっても感染が広がることはなかったが、交通網が発達し、伝播の速度と距離が変化すると、感染症のリスクも高まっていった。いってみれば、地球が一つの都市のような状態になったと准教授の説明があった。ウィルスは宿主と一対一で適応関係を結ぶ。そうやって共存関係を結んできたのだろう。そして長い進化の歴史を経て適応するとマイルドになる。ただ、他の生物から別の生物へと宿主が変わると、大きなダメージになるそうだ。

地球が一つの大きな都市。

わたしは、感情が混乱してコントロールできないときや、よくわからない情報を理解しようとするとき、自分を昆虫の一種にたとえて気持ちや考えを整理してみる習癖がある。そうすると、地球がひとつの生命体になって、自分が大きな流れの一瞬の存在にすぎないということに帰結するので落ち着くのだ。最近では、山崎朋子さんの『サンダカン八番館』を読み終えたとき、市井の女性たちの、想像を絶する生き方に、今ここにいる自分はどうすればいいのかわからなくなって感情が爆発しそうになったので、アリンコになった自分を想像して、土の上を他のアリンコたちと列をなして歩く姿を思い描いた。アリンコの「わたし」をそのまま仲間たちに委ねて、地球をちょっと離れて、木星辺りでもうひとりの「わたし」の意識が浮遊する。眼下で地球がクルクルと回転し始める。タイムラプス動画を眺めているように、自分の中のありったけの歴史的知識を総動員して、戦前中後の大まかな歴史が地球上に流れていく。アリンコの自分は、変わらず地上で仲間と行列をなしている。気持ちが落ち着く。諦観といえば聞こえはいいけど、逃避かもしれない。

太陽光を浴び、火山活動があり、光合成によって動植物たちが育ち、四季の変化がある地球は生きている。地球がひとつの生命体なら、そこに棲むヒトやほかの生物は、地球の細胞のようなものだと想像してみる。わたしは地球の表面をごにょごにょと動くひとつの細胞だ。そして同種類の細胞が至る所でうごめいている。それは地球表面のほぼ全域を占めている。

ずっと、そして今でも環境と共存している他の生物たちと、集団生活を始めたわたしたちヒトの違いは、わたしたちが”生きのこる“ためだけでなく、何だかわからないが、”もっと“何かを欲望しつづけてしまっていることだろうと思う。ウィルスが病原性を持ち始めたのと奇しくも同時期でもある。

他の細胞(ヒト以外の動植物)はヒト細胞の拡大に太刀打ちできず、どんどんやられて死滅していくイメージが浮かぶ。スーッとカメラをズームアウトして、木星辺りからその様子を眺める。ヒト細胞の一部である「わたし」は、仲間たちと共に、見る見るうちに地球の表面を覆っていく。

何だかよくわからないその欲望によって地球をむさぼる行為をつづける、地球に棲みついたヒト細胞のわたしたちは、細胞というより、まるで宿主の地球を痛めつけるウィルスのようではないか?と思ってしまった。
 
わたしたちヒトの行為を止められるワクチンてあるのか?

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