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生きるという十字架。

気づいたらこの世界に居た。
なんだか知らないけど生まれてた。
生まれた私の性別は女性だった。
京子という名前で呼ばれた。
今でもその名前で生きている。

いつ頃モノゴコロついたのかはよく覚えていない。
父が居て母が居て姉がいた。
いつも自宅ではなく親戚の家で過ごしていた。
家の近くには海があって、記憶の半分は海のように思う。

いつかしらわたしは私を自覚した。
自分であることを恥ずかしく思った。
わたしは私でなければ良いのに、と思っていた。
しかし、自分から抜け出すことなど出来ず、自分は自分であるしかない。

自分が自分で居ていいと心から思えるようになるまでには人生の半分くらい時間を要した。
そう思えるまでは自己否定の連続だったように思う。

けれど、どこかで(たぶん20歳くらいの時)ふと感じた。
「いつかこの呪いは解ける。私はきっと自分を表現出来るようになる。今は出来なくても。」

そんな感じで、いつかわからない未来の景色が見えるときがある。
思って、忘れて、そうなって、ああ、そういえば知ってたんだナ、と思えること。
プロセスには長い時間が必要だが、閃くように解る時がある。

長い間、私自身を貫いていた謎は「自分は何故生まれてきたのか、どうして私というカタチでこの世に居るのか」だった。

それは多分、一生かけても分からないだろうな、と、今やっと思えるようになって、考えるのをやめた。

考えても、考えなくても、
いま此処に私は存在していて、この身体は生きていて、命がある。
動けるしあわせ。
健康であるしあわせ。
行きたい所に行けるというしあわせ。

旅をすると感じる。
どこにも行けないなんて事はなくて、時間とお金とエネルギーのある身体があれば、何処へでも行ける。行く気になれば。

わたしは誰の犠牲にもならない。
家族のためには生きるが、それは家族を愛しているからであって、役割としてでは無い。自宅でも自分を貫く事は出来る。

それは、もう誰も、(子供の頃や、嫁に来た頃のように、)私を脅かす人はもうこの世に居ない。
いや、勝手に私が怯えていただけなんだけどね。そのパターンを思い出させるシチュエーションは、もう今は存在していない。
これは大きな安心材料であり、私は何をしても咎められない。
いま思えば、何をビクビクしていたんだろう。争う事が嫌だったんだ。
誰かの怒りは母親の怒りであり、叩かれる(命を脅かされる)という図式が私を究極まで我慢させた。
今はそこから解き放たれている。

それでも、自分に制限があるとするならば、私の作り出した私の時間(世界)の中で、私が私にリミッターを付けているんだろう。
それはある意味、安全装置でもある。

愛する人がいっぱいいる。
家族、友だち。

やりたい事がいっぱいある。
あり過ぎて、時間はおそらく足りない。
やりたい事ぜんぶ並べたら、その容量と残りの時間のバランスは取れない。
と、書いて、やりたい事やってるじゃん。それ以上にあるかな?
無い気がする。
いま、心から喜んでやってる事の上に更にやりたい事が乗ってる。

欲張りだけど、人生の終わりに向かってひとつひとつ手放して行くんだろう。
手放した私に何が残るのかといえば、幸福感なのではないかな。


キリストが何故十字架を背負ったか、わたしはクリスチャンでは無いけれど、今やっと何となく私なりの解釈で解る気がする。(あくまでも私の個人的主観)

それは、「罪」ではなく、十字架は人生そのものなのでは無いだろうか。
誰もが自分の人生という、ある意味もがいてもどうしようもない十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩くのだ。
キリストの死はおそらく、実際の肉体の死では無く、喩えとしての死であり、死して尚生きよ、という、象徴としての死のように思う。

占星術では冥王星の領域の、死と再生。
タロットでは20番の審判。

2025年、多くの人にとって、この世界の大きなシフトチェンジが来る。

自分の魂の使命など考えなくていい。
魂に使命などあるかなんて誰にもわからない。
んなもん無いかも知れん、と個人的には思う。(あるとするならば、あらゆる経験をする事、かも。)知らんけど。

考えるのをやめた時に、それは向こうから示されるのかもしれない。

探しているうちは見つからない。

何故生きているのか、探すな。
食べて、寝て、起きて、今、今、今、に集中し、未来を天に任せるとき、もしかしたら扉が開くのかもしれない。

れんげ



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