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『ボディガード』

M子さんは会社でも評判の美人だったが、美人過ぎるのも考えもので苦労が絶えなかった。爬虫類顔の脂ぎった中年部長にしつこく言い寄られ、いなすのに毎日神経を擦り減らしていた。

再三の誘いにも全く靡(なび)かない彼女に業を煮やした部長は、可愛さ余って憎さ何とやらで、ある時、大したミスでもないのにM子さんをデスクの前に呼び出して大声で説教をし出した。

フロアにいた50人近くの社員が、動きを止めて見守る中、罵詈雑言を浴びせるだけでは気が済まなくなった部長はM子さんに無理難題を押し付けた。

「ここで1曲歌え」


「そう言われた瞬間から、記憶が飛んでるんです」

そこから先は僕が、とSさんが喋り出した。

「彼女、一瞬の沈黙の後、歌い出したんです。ホイットニー・ヒューストンの『I Have Nothing』を。それが何かもう、本人が乗り移ったかのような声量で」

言い出しっぺの部長は唖然と口を開いたまま目を見開いて固まっている。誰しもが、その透き通る歌声に聞き惚れ、女子社員の中には涙する者もあったという。

「…アタシ、歌ったことないんです、その曲。ただ、亡くなった父が好きで良く聞いていたのは覚えてますけど」

M子さんが歌い終わった後、自然発生的に拍手が起こり、一瞬にして場が和んだそうだ。

「それからは部長もちょっかいを出さなくなり、色々相談に乗ってもらっていたSクンと、ね?」

「その、同期で元々仲は良かったですけど、あの日からだよね」

2人はそれから1年ほど交際して結婚した。

彼女がトイレへ行っている間に、Sさんはこっそり教えてくれた。

「実は俺あの時、説教を辞めない部長の所に行って抗議しようとしたんです。そしたら耳元で『ちょっと待ちなさい』って男の人の声がして。びっくりして立ち止まったら彼女が急に歌い出して。で、歌ってる時、横に薄っすらと男の人が立っているのが見えたんです。俺、全然霊感とかないんですけどね」

その薄っすらとした人影が、彼女が歌い終わった時、Sさんの方を振り向いてお辞儀したという。

「はっきりとは分かりませんよ、でも恐らく…」

それが彼女のお父さんだったんだということは、ワタシにも分かった。

「バトンタッチされたんで、俺、命賭けて守ります、彼女のこと」

Sさんは結婚指輪を触りながら、自分の言葉に小さく頷いた。

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