悲しいぐらいに大切な、無駄な時間
うまく言葉にできない哀しさに包まれた日曜日。
最近はゲーセンで音ゲーをやっている。いつもはそれでストレスが発散できるか、脳がぐったり疲れるか。今日もそうなってくれたらよかった……その日は哀しさだけが残った。
なんとなく帰りたくない、だから無駄にバイクでちょっと遠いショッピングモールに行った。
カルディでタダのアイスコーヒーをもらって、用もないのに無駄に食料品を漁った。韓国食材、ちょっと珍しい紅茶、自分では買わないような高い調味料。
結局何も買わず、経済的な効用はなかった。
無駄にヴィレッジヴァンガードでぶらぶらしてみた。「星のカービィ」の資料集を見つけた。初代のカービィは少し芋っぽいけど、それもいい。ファミコンの「星の泉の物語」のカービィがやっぱり好きで、小学生の頃にアホほどやったことを思い出す。
ほしかったけどその日は買わず、将来の出費が約束された。
子どもがいないのに、無駄に子ども用品店を一人でぶらぶらした。親子連れ、親子連れ、親子連れ。そして、親友のことを思い出す。彼は20代半ばに「覚悟を決めた」と言った。パパになってからの仕事っぷりは、伝聞ながらも尊敬せざるを得ない。
一方、自分はどうか。子どもがいない。経済力と甲斐性がなさ過ぎて、愛想を尽かしたあの人は離れてしまった。
「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
世間を賑わすあの言葉。ロジックではいくらでも反論できるし、擁護する気は一切ない。しかし実際、あの言葉は……自分の中の「男のプライド」も、ついでにえぐってくる。
子供服、まとめ買いのぞうきん、お手頃な白いスニーカー、バトルゲームの縦型筐体、そして水着。かつてそれに囲まれた時期を過ぎ、30も過ぎてそういうものと一切関わりなく生きてきた自分の不甲斐なさ。
「生きているだけで素晴らしい」
わかっている。そして実際、今の自分は、割とやりたいことができている。軌道修正しつつも、夢追い人でいられている。本を書いているなんて、その時間が取れることを羨ましく思っている友人もいるだろう。
しかし、現実の自分は実家にだらだら依存している。正直、みっともない。そろそろ親を楽にさせてあげたい。もちろん、自分はよその家庭についてどうこう言わない主義だし、「古い考え」に縛られて苦しい人も知っている。でも、自分の中には、自由主義者からコテンパンに言われているような「古い考え」もインストールされている。親には感謝したいし、亡くなった祖父と祖母には毎日手を合わせている。
無駄に港の近くを走った。
地平線へ向かう道。人気のない道を抜けると、工業用の砂利を背に、釣り人達が糸を垂らしている。穴場らしい。
そういえば。家をゴミ屋敷にしてばあちゃんに迷惑かけまくったじいちゃんは、よくわからない船のエンジンを修理し続けていたらしい。結局、なぜエンジンを修理していたかは分からなかった。そのゴミ達は綺麗に処分され、その部屋でいま、自分がキーを叩いている。家族はみんな、じいちゃんのことが嫌いだった。しかし、力仕事はうまく、町内会の溝掃除では頼られていた。そして工具だけは綺麗で、自分の名前の印を掘っていた。そういうのは嫌いじゃなかった。
無駄にくたくたになって、家に帰った。読者も、こんな無駄文に付き合わされて、さぞかし疲れただろう。
無駄な時間だった。悲しいぐらいに大切な無駄な時間だった。
◆
月曜日。たぶん、ちゃんと仕事ができた。人並みよりはできてなくても、まあまあ生産性はあったと思う。
生産性とは、そういうことだと思う。
藤原 惟
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