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世界で活躍できる人材を育成する学校を創りたい

金重 惠介
Keisuke KC Kaneshige

視野を広げてくれたアメリカの小学校での思い出

父親の仕事の都合で、小学校2~4年生の間、アメリカワシントンDC郊外の現地校へ転入しました。その学校は、日本の小学校と比べ規律はなく、授業中に子どもたちが歩き回ったり、あちらこちらにごみが落ちていたりしているのに、その状況に先生も何も指摘しないことに一体この学校はどうなっているのだとビックリしました。。一方で、先生たちは子どもたちのモチベーションを上げることについてはとにかく創意工夫をしていて、登校初日から、学校に行くことが楽しかったことを今でもよく覚えています。。。

また、学年の分け方についても、クラスの基本が複式学級で、たとえば3年生と4年生が一緒で、3、4年生が一緒に授業を受けるクラスもあれば、3年生だけ4年生だけのクラスもありましたが、お兄さんお姉さんたちがいることの安心感があったり、弟妹がいて面倒見てあげなきゃという感覚だったりが育ったりで、まさに複式学級のメリットを40年も前の時代に享受することが出来ました。さらに、ワシントンDC郊外という土地柄ですが、様々な国出身の子どもたちがいるのでESLも充実していて、多様性にも自然と触れることが出来ていました。

とにかく、学校に行くのが毎日楽しくて、父の日本帰国が決まった際に、自分だけは帰りたくないと泣いたこともよく覚えています。 泣く泣く日本に帰国し、日本の公立小学校へ再び転入した際、アメリカのように生徒の学びに対するモチベーションを上げようという雰囲気もなく、相変わらずの画一的な教育を行っている学校に対してショックを受けたことで、「日本の教育を変えなきゃ」と漠然と感じたことが僕の教育への想いの原点です。

開成中高時代の葛藤、そして東大で教育を学ぶ決断

当時、日本の小学校の教育にショックを受けていた僕に、両親が良い中学校に行くとアメリカのときみたいに楽しい教育が待っているよとアドバイスしてくれたために(今思えば上手く親に乗せられただけですが)、中学受験を決意し親が勧めるがままに開成中学を受験し進学しました。しかし、世間からは日本一と言われる開成であっても、それは東大に進学するという実績が日本一なだけで、実際の教育自体(特に授業)は予備校的な受験準備の授業か、学者崩れの子どもには理解不能な変なこだわりの授業かぐらいで、日本一の教育はここには存在しないなと、衝撃を受けました。

もちろん、学年を越えた取り組みで有名な運動会は、非常に刺激的な経験ができたのも事実ですし、同級生は優秀だし人柄も良かったので学校自体は好きでした。とはいえ、小学校時代にアメリカで受けた教育のカルチャーショックが強すぎて、日本一と言われる学校の教育がこれでは開成の卒業生でさえ、アメリカのあの自由で優れた教育を受け続けた子どもたちとでは、将来雲泥の差がでてしまうと危機感を強く感じ、「日本の教育を変えなければ!」と思い、東京大学で教育を学ぼうと決断しました。

学校を創りたいという想いを受け止めてくれた経営者との出逢い

最初の就職先はミキハウスです。理由は、当時、学校を作りたいという想いをぶつけながら就職活動にチャレンジしていた僕のことを、面白いねと言って暖かく受け止めてくれたからです(他の企業では、君は何でここに来てるの?と言われてばかりでした)。さらに言えば、ミキハウスの説明会に参加した時に、僕が卒論の研究テーマにしていた学校(きのくに子どもの村学園)が、ミキハウスと創業者の木村社長の支援があって設立されたのだと知り、何て運命的な出逢い!と一目ぼれしてしまい、ミキハウスから内定をもらった時点で他の就職活動は全て取り止め、父親からの反対を押し切って入社することを決断しました。。当時は、いつかミキハウスで学校を創るんだ、という想いで働き始めていました。

前例がないなら立ち上げてしまおうというパイオニア精神

ミキハウス入社2年目のとき、当時沸々と感じていた、木村社長以外の課長・部長のおじさん達への不満、理不尽な労働環境を変えようとしない身近な先輩たちへの不満が募り、何か解決策は無いかと探しているときに、MBAというものに出会いました。これなら10年の経験が2年で学べる!と思って、おじさん達の鼻を明かせる!と興奮したものです。同時に、将来、学校を創りたいのならば、当然マネジメントの勉強もしておかないといけないので、MBAはまさに最適だと思いました。これは!と思い、入社当時から気にかけていただいていた木村社長に相談をしました。

当時のミキハウスには、MBA留学はもちろん、留学をサポートするような制度は存在していませんでしたが、僕の先輩で、4年3か月の有給休暇をもらって自転車世界一周をしている人がいたので、もしかしたらという希望はありました。とはいえ、僕としては無理は言えないと思い、MBA留学をしたいので2年間休職させてくださいと申し出ました。転職をするために海外MBAを取得するのではなく、会社をより良くするため自身がマネジメントを学ぶ必要があると思い、MBA留学をする想いを伝えました。すると、社長は私の想いに賛同してくださり、2年間の休職許可ではなく、ミキハウスとして当時初めてのMBA留学サポート制度として、学費から生活費までの金銭的援助をする決断をしていただきました。この経験は、社長が社員の成長意欲に対して報いてあげようという想いを感じることが出来て、非常に嬉しかったです。

ビジネスの経験を積み重ねたミキハウス時代

留学から帰国後、ケロッグ経営大学院で学んだマーケティングを活かすべくマーケティングの部署に配属になり、広告・販促・顧客管理・ウェブサイトなどのコミュニケーション戦略を担当し経験を積み増した。その後、法務部を立ち上げ法務課長として個人情報保護法対応を主導したり、主力銀行が簿価会計から時価会計に変わったタイミングで貸しはがしてきただけでなくハゲタカファンドに売り渡せと迫ってきたときに、銀行と戦う役割を担い友好的なファンドを探してきて支援をしてもらう道筋をつけたりの仕事をしてきました。

その後も、グループ会社の役員として経営を経験させてもらったり、創業社長の息子さんへの事業承継の戦略を担当させてもらったりなど、ビジネス上での大切な経験を様々に経験させてもらいました。最後には、夢であった教育の世界にチャレンジしたいと退職を志願した僕を受け入れてくれた木村社長、息子さん、そしてミキハウスという会社と仲間たちには感謝しかありません。

世界で活躍できる人材を育成する学校創りに対する想い

ミキハウス以外では、河合塾で海外一流大学を目指す中高一貫校の設立プロジェクト(ドルトン東京学園として開校)を取り組んだり、ビジネス英語塾を立ち上げたりしました。また、欧州ボーディングスクールをモデルとした日本初の全寮制小学校(神石インターナショナルスクール)の設立に事務局長として参画し、文科省認可の一条校設立のプロセスについて経験することが出来ました。最近は、教育事業会社の新規事業を立ち上げるコンサルティング業務を請け負ったり、カリキュラム開発をお手伝いしたりしており、これまでに幅広い経験をしてきました。

会社設立をしたこれからは、小学校時代に漠然と感じた「日本の教育をもっと良くしなければ!」という想いを忘れずに、これまでの経験で育んだ知識・スキル・ネットワークを存分に活かし、国内と海外の教育機関が相互連携できる仕組みを構築していきます。SKY Educational Partnersという会社名には、学生(子ども)・教員・経営陣など教育機関にあらゆる立場で関わる方々に対し、ビジネスと教育の世界で経験豊富な私たちが彼らの想いに寄り添い、モチベーションを高め、その想いを実現させるパートナーとしての役割でありたいという私たちの想いを込めています。 世界で活躍できる人材を育成する、その強い想いのもと、僕たちは事業を推進してまいります!

金重 惠介
Keisuke KC Kaneshige

株式会社 SKY Educational Partners

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