生きづらさは誰が決めるか

ADHDとIBS(過敏性腸症候群)とわかったのは、社会人になってからだ。それまでは、ちょっと人より注意力散漫で、お腹が弱いくらいだと思っていた。どうしたって業務量が多く、客先に行く頻度も高いので病院に行ったところ、そのような診断が出たわけだ。

最近はそういった発達障害や難しい病状を抱えた人の「生きづらい人」コミュニティや、そういう人向けの記事を目にする機会も増えた。しかし、読めば読むほど、もやもやするというか、生きづらさが増してない?という気がするのだ。

診断を受けるのはいいことか

そもそも、社会人になってから診断を受けたのは、それまで家族や自分が障害だと気づかず、個性や個人差だと思っていたからだ。困りごとが出てはじめて病院に行き、診断名がつく。人によっては診断名がついてショックを受けることもあるらしいが、私の場合はやっぱりな~というくらいで、特に感慨はなかった。

むしろ困りごとが薬で解決できるし、必要なら自立支援医療制度で安くもしてもらえる。金銭的、QOL的な損得でいえば、それはもう得しかない。

あとからやってくる違和感

問題があるとすればその後だ。診断名がついてしばらくして、「生きづらさ」にとらわれてない?と感じる瞬間があった。

今は様々な生きづらい人のためのノウハウ、経験談が巷に溢れている。程度は様々で、遥かに苦労をして障害を克服している人もいる。そもそも私の場合は工夫すれば会社はもちろん客先作業もできるし、必要に応じて在宅勤務などでカバーすれば特に支障はない。

ある記事で、それなりにいい大学を出たもののADHDを理由に少し就職先のランクを下げて相応の生活をしている、という人を見かけたが、それってもったいなくない?と思うのだ。

それなりに生活できているのに「障害」として括ってしまうと、却って能力や活動が制限されるように感じてしまう。

生きづらさで可能性を制限したくない

今は生きづらさというと特定の障害や境遇をイメージさせるけど、生きづらさっておそらく障害のある人以外も多かれ少なかれ抱えているものだ。

もちろん深刻なものは周りに配慮してもらったり、薬で改善したりする必要があるけれど、そうでないものって個性になるわけだ。実際、会社では持病をオープンにしていないし、ちょっとお腹が弱くて作業は早いけどたまにミスする人くらいに思われている。

そんなわけで、生きづらい人向けの情報は、本当に自分の困りごとに関わることなら読むけれど、それ以外はあまり読まないようにした。むしろ、もっとこれから挑戦したいことに時間を割いたほうが気持ち的にも前向きになれるし、より生きやすくなるだろう。






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