見出し画像

「心中宵庚申」にみる文楽の魅力

国立劇場(小劇場)で上演された文楽『心中宵庚申』を観てきた。

文楽鑑賞は三度目だが、心中ものは初めてだった。
人形遣い、大夫、三味線も錚々たる面々だと夫に教えられたが、残念ながら私はそんなに詳しくない。
しかし確かに演目が始まるなり、瞬間で惹きつけられるものがあった。

+++

『心中宵庚申』のあらすじ。

夫の八百屋半兵衛が留守の間に、姑に離縁を申し付けられた女房・お千代。
実家の上田村に帰り、父も姉も不憫に思うが、何も知らずに迎えに来た半兵衛と共に、お千代は八百屋に戻る。
しかし姑は頑なにお千代を拒み、養い親である姑と、愛するお千代との間で葛藤する半兵衛。
結局、姑への義理を通し、お千代と来世で結ばれようと、庚申の夜に二人で命を絶ってしまう。
お千代は妊娠五ヶ月であった。

+++

・・・子供までできていたのなら、お千代と子供を守れよ。
と思うのだが、時は儒教思想真っ只中の江戸時代である。

実際にあった話を題材にして、近松門左衛門が書き上げたというのだから、当時の人々の涙を誘ったであろう。

親に孝を尽くすのは絶対であり、更に姑は半兵衛の実の親ではなく、養い親だったというところも、義理を通さねばならない一因だったかもしれない。

『心中宵孝心』とも言えるだろう。

***

実際の人間ではなく、人形を遣って同じ事をすると、どうして余計に心を打たれるのか。

文楽が脈々と受け継がれてきた理由は、そこにあると思う。

これは私の個人的意見だが、

文楽は「現実よりも現実らしく」見えるのである。

遣われている人形は、体の大きさに比べて顔が圧倒的に小さい。
髪型も実際より大きく仰々しい。
しかも人形は、人間と違って同じ顔しかできない。

しかし人間が理想とする姿は、こうなのかもしれないと思わせる何かがある。
人形の動きは、指の先まで滑らかであり、ちょっとした光の加減で表情さえも変わる。

そして、人間には付き物の「生臭さ」が人形には無い。
人形遣いが醸し出そうとしているかもしれない生臭さでさえ、美しく見えてしまうのである。

不自然なまでに自然に見えてしまうから、見ているほうは物語にどっぷりと浸り、感情移入できる。

心中ものなので、最期は当然死んで終わる。
壮絶な最期のあがきの末、人形が動かなくなる。
その時改めて「ああ、この人形には魂が入っていたんだな」と、放心しながら感じるのだ。

***

言わば私は、人形の生き様に理想を見たのかもしれない。
「こうできたらラクだけど、なかなかそうもいかない」

理不尽さを感じながらも、人形の潔さに拍手喝采を送りたい気持ちもある。

時代は違えど、江戸の昔を生きた人と繋がることができた瞬間だった。

楽しいお勉強カフェを作りたい!