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音楽が聞こえる


 玄関を開けると、ギターの音が聞こえくる。
 その次に見えるのは窓際のソファに寄りかかる、ご機嫌なあの人の俯いた顔だった。ただいま。おかえり。今日の夕飯はなににするの。彼はそう問いかけながら、曲とも言えない音をいくつか鳴らして、私は、肉じゃがとカレーならどっちがいい、と冷蔵庫を開けながら聞き返す。しばらく手を止めて悩んだ後、カレーかな、といつも通りの答えを呟いた。それから、今度はちゃんと私でも知っているバンドの曲を弾き始めた。
 玉葱の皮を剥きながら、その曲が昔、なにかの映画で流れていたことを思い出したけれど、肝心のタイトルは出てこなかった。

 八畳のワンルームは一人暮らしをするにはゆとりがあるけれど、二人で住むには少し窮屈だった。彼が持ちこんだ三本のギターとキャリーケースのおかげで、姿見を立てる場所がなくなったし、ゴミ当番を忘れられた日には台所にペットボトルの山ができた。もちろん、ベッドもシングルなわけだから、彼が仰向けに寝てしまうと、私は横向きになるしかない。でも、それでよかった。仕事に出かけるときは彼が洋服をチェックしてくれるし、ペットボトルは翌週に私が捨てればいい。なにより、眠るときに斜め上をあおげば、すぐそばに眠った顔が見えたから。
 眠ったの、と尋ねたら、起きているよ、と声が返ってくる。
 ちょっとだけ彼の肩に顔を近づけると、私が安心するまで抱きしめてくれた。


 土曜日の朝は、平日の早起きに慣れている私には十時なんて寝坊の範疇だけど、居酒屋のバイトに出かける彼にとっては早すぎる。窓を開けて冷たい風が入ると、彼は嫌そうに毛布を被り直して、私が邪魔すると、さっと手を摑んできた。
 もう一度眠ってしまった後、目を覚ますのはギターの音だ。
 ボタンを押すと音が変わるおもちゃみたいな機械をつないで、彼は子供みたいに楽しそうに音を鳴らす。私は半分夢心地で毛布にくるまりながら、それに耳を傾ける。今度は彼が邪魔して、私は笑って手を払いのける。毎日同じバンドの曲ばかり弾いているから、少し聞けばすぐに続きを小声で口ずさむことができた。
 ほら、未来がどうのって出だしの歌。
 あれはなんていう曲だったっけ。
 いつも思い出せなくて気になっていたのに、いつでも彼に聞けるからと、結局聞き忘れてしまった。


 彼が部屋を出ていったのは、先々週の金曜日だった。
 前みたいに抱きしめ合って眠らなくなって、ちょうど半年が経った頃だった。今までも何度も喧嘩みたいなことはしたけれど、なんとなく夕飯を食べて、お風呂に入ったら元に戻っていたのに。最近はそうじゃなくなっていた。出かけるときに彼がその色のコートは合わないんじゃないの、とか、寒いからマフラーを巻いたほうがいいとか、口を出すことがなくなったのは、もう思い出せないけれどずっと前かもしれない。

 あの日の夜、私は仕事で疲れて帰ってくるのに、バイトのシフトもたまにしか入らない彼が頼んでいた掃除も、洗濯もしてなくて、その日は床の埃がどうしても気になった。それを拭こうと思っただけなのに、壁に立てかけていたギターに手が当たって、おおげさに音を立てて落ちた。それを見た彼が怒って、私がもういい加減にしてほしいって反論したら悲しそうに俯いて、コートも着ずに出て行ってしまった。 

 会社に行く間、彼はたまに戻ってきている。
 荷物は少しずつ減っていって、キャリーケースはもうなくて、残りはパジャマにしていたスウェットと、三本のギターだけだ。

 

 八畳のワンルームで、私はギターを手に窓際のソファに寄りかかる。
 そうして、いつも聞いていた音を探すけれど、そもそもコードがひとつもわからないからうまくいくはずもない。仕方がないから今すぐYouTubeで探して聞きたいのに、イントロのメロディしか浮かんでこない。
 ねえ。あの曲のタイトルがわからない。
 どうして一度も聞かなかったんだろう。
 その曲は頭の中でループして、私が泣き疲れるまで止まらない。
 このギターを思い切り叩き割ってしまえば、少しはすっきりできるだろうに、情けない私はそんなこともできない。だから代わりに思い出せるだけの歌詞をたどって、口ずさむしかなかった。


    


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