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小説『生物失格』 3章、封切る身。(Episode 20)

目次
前話

Episode 20:塩辛い味。

***

 最早、良辞医師からは溜息しか漏れ出なかった。
 目が覚めた後に溜息だけを吐いて、お付きの無表情な看護師と共に病室を出ていった。
 とは言え、やはり『最低』先生の腕は最高だった。ライオンに両肩をめちゃくちゃにされたにも関わらず、手術によって完璧に治療されたのだ。安静にしていれば予後は良いだろうということらしい。その言い付けを守らないと今度こそ相手にされなくなるだろうと直感したので、軽口も叩かず従うことにした。医師と患者では、明らかに医師の方が立場が強い――それぞれ『最低』と『失格』の接頭辞が付いたら尚の事差は広がるだろう。

 それから1日して何と少しずつ肩が動く様になり、学校の教材で自習をしている所に警察がやって来た。いつもの刑事――刑部ともう1人の若い刑事だった(ようやく『警策こうざく 巡次』だと名前を知った)。刑部の片手には果物のカゴがあった。見舞い品とのことでそんな気遣いは無用と思ったのだが、折角だしカナと一緒に食べようと貰っておくことにした。腐らぬ内に肩を治さねば。
 しかしただの見舞いな訳がない、事情聴取にでも来たのだろうか――と思ったが、どうも事の顛末は夢果から聞いたらしく聴取する事はもうないらしい。本当に見舞いなのかと思っていると、代わりに自分の知らなかった事の顛末を教えてくれた。

 あの後、場にいたピエロ達は逮捕された。但し全員ではないようで、1人だけ取り逃してしまったとのことだった。誰なのだろうかと尋ねると、逡巡した挙句諦めたようにその何人かの名前を教えてもらった。どうせ夢果に掛け合えば名前は筒抜けになるとでも思ったのだろう。まあその通りなのだが。
 挙げられたのは『糸弦操』。奴は逃げ切ったのか。とは言え、そう簡単には見つからないだろう――奴は姿のだから。もし、奴の言葉をするならば、だけど。
 一応その情報は伝えておいた。国家権力には助力した方が後々身の為だからだ。刑部は流石に怪訝そうな表情をしたものの、「分かった」と頷いた。本当に信じるかどうかは分からない。そこはこの刑部の信頼度に賭けるしかなかった。
 また、ほぼ全員逮捕されたので移動サーカス団『ノービハインド』は解体。朝刊にも載って少し紙面と世間を賑わせたらしい。どうせすぐに別のニュースに取って代わられるだろうけど。こんな異常な事態でさえも塗り潰すほど、現代は金になるスクープに満ち満ちている。次々金のなる木ならぬ金のなる記事に飛びつくだろう。
 このニュースはもって数日だなと児戯程度に算盤を弾きつつ、刑事の知る限りでの顛末は以上の様で、二、三雑談をしてから病室を出て行った。

 カナがやって来たのは、その数時間後だった。
 しかし、明らかにいつもと様子がおかしかった。理由は、何となく察しがつく。
「……えーた、怪我は良くなった?」
「勿論。この通り自習することができるからな」
 そう言って、手をヒラヒラとはためかせる。痛みを感じないので現在の治療の進行度があんまりよく分からないが、間違いなく快方へ向かっているだろう。
 だが、自分の怪我の程度は別にどうでも良い。
 問題はカナの方だ――カナの、恐らくは心の怪我の方。
「なあ、カナ」
「な、何?」
「……のか?」
 カナは言葉を詰まらせた。推測が確信に変わった瞬間だった。
 同時に、カナの目からは涙が流れ始める。
「だ、って。私、私……っ」
「……」

 ピエロ。京戸希望。
 よ。
 カナの心を粉々に打ち砕く事に、お前は成功した。同時に、自分の心を傷つける事にも。
 、と胸が痛む感覚がした。封をした筈の痛覚が、その封を切って久方振りに甦ってきたかの如く。
 自らの手を握りしめ、掌に爪を食い込ませる。痛みは感じなかった。肉体の方には戻っていなかった。

 
 これならばまだ、救う事ができる。
 カナを救う力は残されている。
 無力さと決別し、痛覚を喪い呪いを得たあの日から。
 その後病室でカナと恋仲になったあの日から。
 この痛覚を失った呪われた体とそこに込められた力は、全てカナに捧げると決めている。
 だから。

「……気に病まないでくれ」

 この呪われた体で、カナを抱き寄せた。
「アレはカナの意志でも何でもない。あのピエロがやった事だ。だから自分は気にしてないし、カナも気にする事はない」
「……っ」
「心の整理には時間が掛かるだろうけどさ」
 カナを抱く力を少し強める。か弱い体を壊さぬ程、そして手放さぬ程強く。
「何があっても、自分はカナの事が好きだ。それだけは、忘れないで欲しい」
「……えーた」
 カナはぽすりと自分の胸に顔を埋めた。じわりと病人衣が濡れていくのを感じる。暫く体を震わせ嗚咽を出してから、とうとう言った。
「…………無事で、よかった」
 相当言葉を選んだ末なのだろうと思った。
 仲良くしてたピエロに謀られ、クッキーを焼いてくれたマジシャンは死に、火の輪くぐりを見る勇気をくれたライオンを失い、カナは自分を刺殺しようとし、自分はそれら殆どに殺されかけた。
 言いたい事はカナの中に山程あって、言わなければならない事も頭の中で渋滞していて。
 それでも一番言わなければならないのがコレだと、カナが絞り出した末の言葉に思えた。
「カナ」
 呼びかけるとカナはぐしぐしと自らの病人服で顔を拭って顔を上げた。目は赤く潤んでいて、顔も真っ赤になっていた。

 どんな状態であっても、自分の愛する彼女はカナただ1人だ。
 カナの肩に手を置く。察したのかカナは両目を閉じた。
 自分はカナの期待通りに、顔を近づけ、柔らかい唇に唇をつけた。

 キスの味は、塩辛かった。

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