小説『生物失格』 1章、英雄不在の吸血鬼。(Future Preface 1)
Future Preface1:腹破れた失格者。
――深夜の廃屋、というのは人を惹きつけるらしい。
散乱した硝子片。積みあがる綿埃。不気味な壊れかけ人形。ギシギシと鳴り響く床板。不気味と不安の不協和音が織りなす、独自で独創的な空気感。
こうした怪談チックなものにスリルを求めているのだろう。『日常では飽き足らない』『刺激が欲しい』といった、脳の壊れた愉快者の愚劣な思考だ。
そう、壊れている――人間には『闘争』と『逃走』という同音異義な本能が備わっているが、『逃走』を自ら放棄しているのだ。だというのに『闘争』する気もない。むしろ負けるだろう――世の中の怪談を見れば一目瞭然だ。
平凡で平庸で平穏で平和な世界がどれだけ良いか、という凡庸で穏和な思考ができない時点で、そいつの回路は故障している。
まあ、そんな人間には力説したところで理解させられる筈もないし、スリルを求めた結果その人達が死んだところで自分の世界には何もないだろうから、どうでも良いと言えばどうでも良い。
ああ、どうでも良いんだ。
今、腹をナイフで貫かれている自分には。
来るんじゃなかったなあ、と苦く後悔しながら。
彼女のカナが行きたいって言ったしなあ、と甘く自分の行為を許しながら。
最悪な愚劣だなあ、と辛口な自虐をしていた。
冷たい金属が暖かい体を貫いている、そんな感触。じわじわと服が血色に染まっていく。
クリーニング、お金かかるだろうなあ。いやそもそも、この血をどうやって説明したものか。
場違いだと自覚しながらそんなことを思っていると、カナ――この世で唯一信頼を置いている彼女が、必死の形相で駆け寄ってくる。
心配してくれてありがとう。
でも、大丈夫。そんなに気にすることではないよ。
……そうやって彼女に語りかけることができた、気がした。出来たかどうかは分からない。
それでも彼女は寄って来て、何とかしようとスマートフォンを手に取る。警察か病院にでも連絡するのだろう。そうしてくれると助かるな。流石に失血死はしたくない。それにはまだ、やり残したことが少なからず残っている。
さて、救援要請はカナに任せるとして。
自分は取り敢えず立ち上がる――何事もなかったかのように。
いや、ナイフが腹に刺さったままだけど。
痛くもないから如何でもいい。むしろ刺さったままの方が流れる血が少なくて死ぬのが遅くなってありがたい。
死にたくないし、死にはしないけど。
……しかし、ああ。
何と、心地よい冷たさか。熱に魘された時に氷を額に当てると気持ち良いような、そんな感じだ。
生々しく暖かく波打つ臓器に固く冷たい刃が刺さっているというのは、成程案外良いものだ。
思わず笑ってしまいそうだ……実際微笑んでいるのかもしれない。
目の前の、皮膚を覆い隠した廃屋の怪物が狼狽えているのを見れば、何となく分かる。
まさしく、自分が狂っているように見えるだろう。
実際、自分は狂っていた。
痛み。
生命活動の危機を察するための感覚。
それを、自分は喪っている――いや、捨てたが正しい。
これを、異常と言わずして何と言うのか。
だからこそ、相手が戸惑うのも無理はない。
――心配する必要は1ミリもない。安心して混乱しろ。お前の心は正常だ。
そう声を掛けてやってもいいが、生憎そこまで自分は優しくない。
腹を裂いた代償なんてどうでもいい。
だが、自分の彼女――カナを怖がらせた分、きっちりお返ししてやろうじゃないか。
「……お前っ」
目の前にいる廃屋の怪物は、震える声で問いかけた。
「何者……なんだ!」
その陳腐な問いに、自分は、何ということもなく答える。
驚くほどに、はっきりとした声で。
生物に必須の痛覚を失えば、こう呼ばざるを得ないという確信を持って。
「生物失格だよ」
落とした鉄パイプを掴み取る。
目の前の怪物を睨みつけ、そして、駆け出した。
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イラストは、紫蛇ノア様より頂きました。
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