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アニメ映像表現の「強度」の問題について(その1)

アニメの歴史の中の強度問題

1.まず「強度」とは何か

「強度」は、「耐震強度」や「モジュール強度」など、様々なシーンでよくお目にかかる普通の言葉です。力学的・光学的な領域での、力や光線の出力の「強さの程度」のことを差す場合が多いと思いますが、漠然と「強度がある」といえば、殆どの場合は「耐久力がある」と同意になるでしょう。

ですが最近は、芸術や文学など、評価を数値で表すことが出来ない対象についても、ひとつのメタファ(比喩)として「強度がある/ない」と言うことがあります。これは、簡単に言ってしまえば「説得(納得)力」のことです。ですから「アニメ映像表現の『強度』」なら、視聴者を説得(納得)させる力の強い映像表現と言い換えることができるでしょう。近年よく聞くようになった「本格ミステリ」も、「強度のあるミステリ」、つまり「ミステリとしての説得力のある作品」といえるでしょう。

ですが、一口に「説得力」といっても、様々な基準があります。どういうシチュエーションのときにどういう表現をすると「強度=説得力」のある表現といえるのか。それは個人によっても違うし、時代によっても違う。

そこで今回は、アニメ表現での「強度」の概念について慣れるために、映像技法としての「アニメーション」が、その表現にどのように「強度」を増していったのか、歴史的なことから理解を深めていくことにしましょう。

2.アニメの「強度」獲得の歴史

■2.1フルアニメーションとリミテッド・アニメ

(註1

かつて映画(この稿で断りなく「映画」といった場合、実写映画のことを指します)がそうであったように、アニメーションは、映像表現としていかに強度を増すかがずっと課題でした。映画の場合、モンタージュ技法の発案→トーキー化→カラー化→CGとの融合が、一応は強度を増すことに繋がっていきました。もう最近の映画は、どんな空絵事を描いても、それを観ている観客にとっては、現実に目の前で事が起こっているかのような錯覚を覚えてしまいます。

映画『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン監督、1997年)で、どのシーンがセットで、どのシーンがCGか見分けが付く人がどのくらいいるでしょうか。『アイ、ロボット』(アレックス・プロヤス監督、2004年)も、セットとCGの区別は殆ど付きませんね。CGと思っていたらセットだったなんてこともありそうです。クライマックスは圧倒的でした。例えフルCGで描かれた作品であっても、その映像表現の強度は、現在は極限にまで達しているといえるのではないでしょうか。

一方アニメは、所詮は「画」なので、「強度」を上げるといっても限界があります。どんなに滑らかに動いても、どんなに精密に描かれても、「画としては」と保留事項なしには語りえません。『イノセンス』(2004年)や『スカイ・クロラ』(2008年、以上押井守監督)でも、実写とCGが区別付かなくなることなんてないわけですよね。当初こそ、「画が動く」ことそのものが驚きだったわけですが、そのレヴェルでは「強度」はあまり関係ありませんでした。とにかく「動いて」いればいいわけで、強度の高さを目指した映画に対し、映像的にはむしろ「ゆるい」方が好まれていたように思います。

その代わり、米国や英国のアニメーション(カートゥーン)では、『トムとジェリー』や『チキチキマシン猛レース』のように、動物を擬人化したモティーフや、強烈なモーフィング(車やカナトコに潰されて紙のようにペラペラになるなど)といった表現が好まれます。こういった表現は、画による映像ならではですからね。そう考えると、ハリウッドのフル3DCGアニメーションは、未だにその路線を追求しているといえるでしょう。

■2.2動きから強度へ

ところが、次第にその驚きもなくなり、観客はアニメーションならではの、「画が動く」ことだけでは満足しなくなっていきました。映画だって、原理的には「動く画」です。映画も、当初は画が動くだけでよかったんです。リュミエール兄弟の有名な初期映画『Ciotat駅への汽車の到着』(1885年)は、Ciotat駅に汽車が到着し、乗客が降りてくるだけの2分足らずの短編です(註2。

これだけでも、当時の観客は大きな驚きをもって映画を観たといいます。ですが、次第に表現自体が彫琢されていくようになります。その意味で現在のアニメーションは、映画のたどってきた道を追従しているのかもしれません。

ではどうしたか。画のクオリティを上げる方向に向かいました。画のクオリティを上げることが、強度を増すことに繋がったんですね。

特に、日本のTVアニメーション(以下アニメ)はいわゆる「リミテッド・アニメ」ですから、速い段階から「動き」から画のクオリティ・アップを志向していたと思います。もちろん、動物や昆虫が人間のように二足歩行したりしゃべったりするアニメがなくなったわけではありません。でも、『トムとジェリー』や『ルーニー・テューンズ』(バックス・バニーの登場するドタバタコメディ)と『みなしごハッチ』や『ガンバの冒険』を比べれば分かるように、擬人化した昆虫でシリアスな物語をする考えはハリウッドでは薄かったと思います(近年では『ファインディング・ニモ』などありますが)。

その一方、アニメの強度獲得の歴史の中で、「スポ根もの」と「ロボット・プロレスもの」が一時代をなしたのは特筆すべき事象だと思います。

「スポ根もの」は実写ドラマでもありましたが、「動き」の点でアニメが実写に適うはずありません。そこで、画であるアニメならではの利点を活かし、スポーツを描いていきました。魔球やアクロバティックな技は、稚拙な映像トリックで視聴者をシラケさせることなく、自由に表現することが出来ますからね。ピッチャやバッタが闘志に燃えているアナロジィとして瞳に炎を描いたり、野球場がいきなり猛吹雪の冬山に変わったとしても、視聴者の興味を削ぐことはありませんでした(当時は)。つまり、そこに「強度」があったわけです。「ロボット・プロレス」も同じです。

■2.3.1アニメバブル1~リアルが強度だった時代

それらが一世を風靡した時代を経て、アニメ界は大きな転機を迎えます。『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)『無敵超人ザンボット3』(1977年)を経て、みなさんの大好きなファースト・ガンダム、『機動戦士ガンダム』(79年)の登場です。

『ガンダム』の登場によって、80年代は、やたらと「リアル」が叫ばれる時代となります。「リアル」であることが「強度」に繋がった時代です。「リアル」志向は、世界観やストーリィに対しても当てはまりますが、兵器や効果(爆発などのエフェクト表現)といった作画に対しても「リアル」であることが要求されるようになっていきます。そうして生まれた作品が『ダグラム』(1981年)や『ボトムズ』(1983年)であり、『マクロス』(1982年)でした(註3。

1990年代に入ると、「ジャンプ」が出版部数500万部(1989年)から600万部(1991年)を叩き出し、原作つきのアニメが大量に生産されるようになります。すると、あれほど「リアル」であることがアニメ映像の「強度」だったのに、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』や『パトレイバー劇場版』を頂点に、アニメは一気に「リアル」路線を捨てていきました。両作とも1989年の作品なのは奇妙な偶然です。OVAが売れなくなっていくのも、この時期辺りからでしょうか。

■2.3.2アニメバブル2~アニメであれば良かった時代

90年以降は、「日本の失われた十年」なんていわれますが、アニメの制作数は右肩上がりに増えていきます。『セーラームーン』『幽☆遊☆白書』(以上、1992年)、『SLUM DUNK』(1993年)など、ヒット作も毎年のように生まれています。しかし、映像表現的に「強度」があるといえる作品は多くはないですね。

この時期、マニア的な観方をする層は80年代前半に比べて激減したのではないでしょうか。というより、マンガを原作に持ってきたことで、アニメを一般のドラマや歌番組のように自然に消化する層が増えたというべきでしょうか。

でもだからといって、黎明期のように画が動けば満足ではなかったと思います。この時期から、ファン層が、一般層とコアなアニメファン層とに二極化していきましたが、ここで問題にしたいのはコアなファン層です。90年代に入ってしばらくすると、パソコン通信をやる人がポツポツ現れるようになります。10代、20代前半はあまり手の出る代物ではありませんでしたが、20代後半から30代でこれにハマった人が何をするか。遅くとも60年代後半生まれのこの年代の男たちが集まれば、アニメや特撮の話題になることは自然の成り行きでしょう。

■2.4.1受身から能動へ

既に90年代前半には、Niftyサーブのアニメフォーラム(2ちゃんでいえばアニメ板のようなもの)に『セーラームーン』の会議室が2つも出来ていた。この辺りから、アニメは個人で楽しむ(消費する)ものから、次第にコミュニケーションのためのツールとなっていきます。当時から、例え職場にアニメ好きな人がいても、昼休みや就業後に飲みながらアニメの話をするのではなく、それぞれ自宅に帰ってからパソ通の掲示板で情報交換をするライフスタイルが確立されていくのですね。

そしてこの動きは95年、windows95の爆発的な浸透で一気に加速します。その起爆剤となったのが、『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話論争であることは、記憶に新しいところでしょう(といっても、もう13年近くも前の話なんですね)。

今思うと、まだ常時接続化やブロードバンド化もされておらず、2ちゃんねるもブログもない時代に、みんなよくやっていたなと関心します。よく、ニフティのフォーラム(註4は、23時から翌朝8時までの通話料金が定額になるいわゆる「テレホーダイ」が広く普及し出したことを契機に、利用しやすくなったといわれます。でも、テレホタイムにパソ通やってると電話は出来ないし、そもそもアクセス集中によりつながり難く、現在に比べて利便性はかなり低かったですね。

■2.4.2多様化するファンの動向

時代は遡りますが、1980年代――具体的には『マクロス』以降――、アニメファンのニーズはどんどん多様化していきます。キャラで見る人、メカで見る人、設定で見る人、ストーリィで見る人、スタッフで見る人等々様々です。

その延長として、ファンの中から制作活動に関わる者も出てきます。当時、まだアニメは少人数で作ることは出来ませんでしたので、DAICONオープニングアニメ(註5のように、ファンが集まって短編アニメを制作するのは例外としても、月刊「OUT」のようなパロディ投稿誌に投稿していて現在プロのライター・漫画家として活動している人は少なくありません。また、アニメだけではありませんが、同人誌市場が急速に発展したのも80年代です。

そのように、ファンが制作者側に回る状況の中で、「ファンが作っているのに自分たちの観たいアニメが出てこない」もどかしさが次第に増長されていきます。脚本家の首藤剛史氏は、次のように書いています。
『ゴーショーグン』や『ミンキーモモ』などで、いつも自分の思い通りのことをやっているような印象をもたれますけれど、あくまであのような企画は「ロボットもの」であり「魔法少女もの」であったわけです。問題は、作り手が企画書通りのリスクの少ないものを作るか、嫌な言い方だろうけど目を盗んでやりたいものを作るかのどちらかでしょう。<br>ファンの人が「なぜ面白そうな企画が通らないのか?」というのは、結局限られた層が言ってるに過ぎないんです。アニメ関係の雑誌を読む人って非常に層が限られている。そういう人が「観たい」といってもさほど意味はないんです。<br>(中略)TVという素材自体が、趣味的な連中を相手に出来ない体質を持っているんです。もしファンが今放映されている作品に飽き足らない場合、するべきことは、いかに視聴者の数を増やしつつ、内容を自分たちの観たいものに近づけていくかと言う作業だと思うんです。

この発言は、『アニメック』Vol.31(ラポート刊、1983年)「第一特集 こんなアニメが観たい!なぜ出来ない!作りたい!」収載の「観たいアニメを作るには、制作者になるのが一番」からのものです。

ガイナックスや『エヴァンゲリオン』は、正にこの発言を体現したものといえるでしょう。とはいえ、それでも『ガンダム』以降、本当の意味で、ファンが作ってファンが観たかったアニメといえるのは『エヴァ』が最初にして頂点だと思います。でも、結局は最後に破綻してしまい、状況は現在でも進行中です註6。

そうはいっても、自分の観たいアニメを実現させるために制作者にまでなる人、なれる人がどれだけいるでしょうか。そういう人たちが出来ることは、せめてパロディなどの二次創作か、「語ること」だけなのです。そのことが、脅威のコミュニケーション・ツール、インターネットの発達で先鋭化したのが90年代のファン動向だったといえるでしょう。

■2.4.3「エヴァ論争」後

2.4.1で記したとおり、90年代になって、ファンがコミュニケーションのツールとしてアニメを語るようになり、『エヴァンゲリオン』の最終話論争が大きな転機となりました。ところが『エヴァ』は、そういう状況も取り込んでいきます。

劇場版『The End of Evangellion Air/まごころを、君に』(1997年夏、いわゆる「夏エヴァ」)で、インターネットで書き込まれた「庵野 死ね」の画面がスクリーンに映されたのです(かなりの高速フラッシュですが)。そればかりでなく、先行して公開された同『DEATH & REBIRTH シト新生』(1997年春、いわゆる「春エヴァ」)上映時の観客席の実写映像も挿入されました。ここに、ファンが作品状況を語るなら、作品もファン状況を語る、作品とファンとの相互関係が成立したのです。

また一般のファンだけでなく、哲学者だとか、精神科医だとか、フェミニズム運動家だとか、音楽評論家が、おおよそアニメ業界と結びつかない分野の専門家までが、自分の専門知識の枠組みで『エヴァ』を語り始めたのです。

この状況は、アニメファンが商業的に語れる立場になったのと同時に、アニメファンが出版社の編集者として自分の企画を通せる立場になったことが極めて大きいと思います。それまでは、アニメやマンガに関する企画を提案しても、団塊世代の上司に却下され続けていたでしょうからね。90年代後半から00年前半までは、アニメ関係の雑誌やムックが一番多かった時期だと思います。

ところが、この時代の「語り」は、作品そのものから大きく離れたフィールドで展開されていました。スペック重視のカタログ式ピックアップとでもいいましょうか。『エヴァ』の最終話論争にしても、確かにその作品のことを語って(語り合って)はいるものの、どうもかみ合わない印象があります。ファン層の多様化とともに、視点の細分化が進んだのがこの時代だったといえそうです。いや、多様化・細分化が悪いといいたいのではありません。本来、作品の枠の中で行われるべき各論が、作品から離れたところで行われ過ぎてはいないかと思うわけです。

90年代以降、パロディにしろ二次創作にしろ、与えられたものでどう遊ぶかが重要になった時代といえるでしょう。もちろん、その風潮は、『マクロス』の時代に出てきた風潮です。王道展開の寄せ集めを否定しつつも、人気作品の各要素をリミックスした二次創作は認める。アニメを語る場に於いて、コミュニケーション・ツールの進歩とともに、そういった風潮がますます強くなっていったように思います。

加えてこの時代には、映像表現の強度もあまり問題にはされていなかったように思います。オリジナルの作品の強度が強い(=説得力が強い)と、与えられたもので納得するしかなく、それを自分の側に引き寄せ、「オレならこうする」と自由に遊ぶことが出来ないからです。

(この稿つづく)

(註*1
「アニメ」がアニメーションの略語ではなく、「日本のアニメーション」を指す言葉だとすると、この「フルアニメーション」と「リミテッド・アニメ」という別け方が何を意味するか、分かりますよね?

(註*2
実はこの映画は、ただ単に駅に汽車が入ってきて乗客が乗り降りする場面を撮っているだけでなく、映像表現的に極めて強度のある映像です。駅の監視カメラの映像でどんなにインパクトのあるものを見たとしても、そこに強度はありません。その意味で『列車の到着』は、初めての映像であると同時に、初めての映画だったといえるのです。

(註*3
もちろんそうでない作品も沢山あります。例えば、『無敵ロボ トライダーG7』(1980年)、『ゴールドライタン』(1981年)、「ブライガー三部作」(銀河旋風ブライガー/1981年、銀河烈風バクシンガー/1982年、銀河疾風サスライガー/1983年4月) があり、1980年には『鉄腕アトム』『鉄人28号』『宇宙戦艦ヤマト』がリメイク(『ヤマト』は第三作目)されました。ロボットものではありませんが、『新・あしたのジョー』が制作されたのもこの年ですね。もっとも、『マクロス』はリアル・ロボットの殻をかぶったロボット・コメディだという見方もありますが・・・。この辺りのアニメ業界(というものは今ほど明確には存在しませんでしたが)の動向については、日を改めて書いてみたいと思っています。

(註*4
インターネット普及初期の事件として有名な、いわゆる「東芝クレーマー事件」は、2ちゃんねるだと思ってる人もいるみたいですが、ことの発端はニフティのフォーラムへの書き込みでした。

(註*5
DAICONについては「こちら」参照。『マクロス』に現ガイナックス代表取締役社長の山賀博之氏(*1962年)や庵野監督が制作スタッフとして参加したのは、アニメ制作のノウハウを学ぶためでした。

(註*6
セールス的にも当たった作品だからいいですが、そうでなければ中途半端なままだったでしょう。

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