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『ぼっち・ざ・ろっく!』細かすぎる全話演出解説を通して学ぶアニメ演出③

2022年10月から放送が始まった『ぼっち・ざ・ろっく!』。
今更『けいおん!』の二番煎じ?と思ったが、見始めてみると、意外にも、これが驚くほど作り込まれた尖った演出の数々で、黙ってはいられなかった。

2022年12月28日より、DVD&ブルーレイが発売開始されるので、twitterでの私のツイートの解説と、新たに解説を書き起こし、第1話から『ぼっち・ざ・ろっく!』の各カットを細かく解説しながら、アニメの演出について解説していく。といっても、放っておくと、いつものように全カットの解説(1話300cut程度)になってしまうので、重要な箇所だけね・・・ということで始めたのだが、果たして結果は?!

なお、第1話と最新話(見逃し配信)は、abema.tvで無料視聴可能です。

前記事(①②)のリンクは、一番下の方にあります。

第4話「ジャンピングガール(ズ)」

エスタブリッシュ・ショットの必要性

1stカットは、ポスターが貼られている場所が明確化されていない建物の壁の、右から左へのパニング・ショットから。通常はエスタブリッシュ・ショット(ES)の入る部分だが、本作のESらしいESは第3話だけで、場所の明確化という本来の意味では機能しないESばかりなんだけなので、今更驚かない。

エスタブリッシュ・ショット(状況設定ショット)」は、シークエンスの冒頭に配置し、そのシークエンスがどの場所か、時間はいつか、などを明確にする説明カットである。時には、字幕(スーパー)で「時に、西暦2015年」「第三新東京市」などと示されることもある。

『ぼくたちは勉強ができない』より

また、固定カメラとも限らず、このように上から下にパン・ダウンしたり、いろいろ。

しかし、下記のツイートのもあるように、「必要不可欠か?」といえば、その存在意義はそれほどないだろうな、というのが正直なところだ。

主人公の家や学校など、舞台が替わる度にESを入れれば、使いまわしも出来るだろうし、作画の手間と予算の省略には繋がるかもしれないが。

パンの方向性と意味

パンと略される「パニング撮影」は、単にカメラを左右に振れば良いというわけではありません。ちゃんとした方向性があるのです。

一般に、パンは、「左から右」とされ、その逆(右から左)は「逆パン」呼ばれます。

なぜなら、通常、我々の視線は「左から右」へ移動しているので、その動きと拮抗する「右から左」へのパンだと、自然ではないからです。

その証拠に、下の二つの図形を比べてみましょう。

とちらが「上り坂」で、どちらが「下り坂」に見えるでしょうか?

1が下り坂、2が上り坂に見える人が多いのではないかと思います。つまり、視線が「左から右」に動いて、そう感じる、というわけです。

また、主要登場人物の登場は、「画面右側から」という伝統と照らし合わせても、「左から右」へのパンは理に適っているのです(カメラが左から右へと動けば、そこにフレーム・インしてくる人物も当然右側から入ってくるので)。

「先を見たい」というモチベーションを喚起するために

「錯時法」を使わない限り、通常は物語の進む時間軸に合わせて進行するストーリーだが、何の工夫もなくそのまま進むだけでは、凡庸で刺激のない映像の連続に、見ている方は「分かった分かった」と飽きてしまう。手品を披露する際、これからやること、起こることを「先に言ってはダメ」と言われるのと同じだ。「これから何が起こるかわからない」「え、これどういうこと?」という要素が「次を見たい」というモチベーションに繋がるのだ。

「雨」に限らず、涙・鳥・斜面・坂・投擲・ふいの落下物・雷・受験失敗・下校・自販機。これらのように、「上から下へ落ちる」という出来事を描くことで、登場人物の「心理的な落ち込み具合」を的確な根拠とともに「視覚的」に表現できるのだ。

加えて、右から左への「逆パン」、明示されない場所、なぜここにいるのか、何をしているのか分からないリョウ、というように、「違和感」の連鎖によっても、視聴者の「?」を誘発していく。

さらに、映像作品の場合、「登場人物が何かを見る」シーンでは、
①何かを見てリアクションをしている登場人物
②その登場人物が見ているもの
という順番で開示していくのがセオリーで、特に「見ているもの(ということはつまり見られているもの)」に主体が置かれている場合は必ずそうしなければならない(知らなかった人は気をつけて)。

ツイートにもあるように、このシーンでは、まず「見られているもの」(ポスター)が先に提示された(ポスターをよくみると、左下にリョウらしき人物が映っている)。

従って、このシーンでは、「見られているもの」ではなく、それを見ているリョウに主眼が置かれているということになる。

「悲しみを携えてポスターを見ているリョウ」。

さあ、この謎解きはされるのであろうか?
先を、見ていこう。

BGMで同時性を描く革新性

ドラマや映画といった映像作品には、「クロス・カッティング」あるいは「インター・カット」と呼ばれる編集手法がある(ここでは前者に統一)。

クロス・カッティングは、別々の場所や時間軸で起こった出来事を、交互に繋げるものだ。映像を見ている時間的には交互になる訳だが、表現としては「同時に起こっている」という意味合いになる。

しかし、今回のこの例では、「ポスターを見ているリョウ」と「ギターを練習している喜多」は、恐らく同時刻である。

本来は、クロス・カッティングして、ギターを練習している喜多のシーンでダイジェスティック・サウンドとして流すはずの音を、「ポスターを見ているリョウ」のシーンのノン・ダイジェスティック・サウンド(BGM)として流すことにより、その同時性をリアルタイムに、つまりまさに「同時に」描写しているのだ。

また、ポスターを見ているリョウのシーンから、ギターを練習している喜多のシーンに替わる際、彼女のギター音が若干被って終了する。

それは「音」なら台詞でもBGMでもナレーションでもなんでも良いのだが、これをオーディオ・ブリッジといい、「音」で別々のシーンやカットを繋ぐ手法だ。これによって、時間やシーンの意図などが「継続」して次のシーンに転換されていることを示すもの。

この図ではBGMを例にしているが、台詞でもナレーションでも良い

会話シーンでの「場の演出」とは?

会話(ダイアローグ)シーンの描き方は、様々なアプローチがある。もちろん、二人、三人、四人と人数が増えていくに従って、その困難さは指数関数的に跳ね上がっていく。

尤も、それは飽くまで可能性の話で、実際に会話を交わすのはその内でほんの数人で、実際は(1人)2、3人+その他大勢という感じになるだろう。

いずれの場合も、大事なことは他の演出と同じで、「視聴者を退屈にさせないこと」と、「誰が誰と話しているのか方向性を混乱させないこと」だ。

上記の例では、ツイートにもあるように、まずはMCの虹夏とその他メンバーとの位置関係をアングル/リバース・アングルで確定さた上で、超ワイド・ショットの縦の構図によるマスター・ショットで保険をかける。

場の演出」(エイゼンシュテインなどは、かつて「ミザンセーヌ」と呼ばれていたが、それは今日ではシーンの「長回し」の意になっている)は、ストーリーを映像で表現するために、撮影現場をどのように設計するか、そのプランを立てることをいう。映像に映る全てのものを設定するのだ。

何度も申し上げている通り、アニメは映像の撮影現場に物理的なカメラは存在しないし、「撮影現場」という概念すら存在しない。全て、紙(絵コンテ、美術ボード、設定書etc)の上で完結することが可能だから、実写ほど難しくはない。しかし、人物配置や照明の方向性など、考慮しなければならない要素は少なくはない。

このシーンでは、人物配置ついて考えてみよう。

上記図例下のマスター・ショットを見れば分かるが、虹夏がお誕生日席で、リョウはその右側、ひとりと喜多がその左側に配置されている。

なぜだろう?

虹夏はMCなので、お誕生日席にいることは納得できる。

では、ひとりと喜多が隣り合っていて、リョウがその正面に座っているのは?

ここで人物の「グルーピング」という概念が出てくる。

映像作品の登場人物は、個人単位で思考や行動をしているが、各々完全にバラバラな思考を持っていたり、行動をしたりする訳では無い。
それよりもむしろ、同じような思考をしていたり同じような行動を「グループ」単位で行っている。

そこで、共通する思考や行動、立場の登場人物たちを纏めてグループ化し、その一グループを最小単位とし、その単位ごとに動かしていくのが「グルーピング」であり、そこまでやって「場の演出」が成立する。

そう考えると、ひとりと喜多の二人でまずは1グループ、そして、リョウ1人で1グループ(もちろん虹夏1人で1グループ)となる。

だから、ひとりと喜多は並んで座らされているのだ。1つのグループが「場の演出」において離れた場所に位置してしまったら、1ショットには収められないし、グループ化した意味がなくなり、カメラ・ワーク(画面の演出)の意味や説得力が薄れてしまう。

そして、ひとり+喜多のグループと、テーブルの境界線を隔ててリョウが向かい合って座っているということ、そしてリョウの不満そうな表情により、「対立構造」が生まれそうな緊張感が生まれてくる。

虹夏の「あーあ、ぼっちちゃんは大丈夫」の台詞に、「え?!」となって虹夏を注目する一同。

突然のリバース・アングルと、ワイド・ショットで斜めにとられたダイナミックなパースにより、虹夏の唐突な一言に対する、一同の「なんで?」という疑問の大きさが強調される。

続くカットは、虹夏を真正面からのミディアム・クロース・アップで捉え、カメラ目線でシークエンスの転換点となる決め台詞。

この、何の工夫もないというか、マニエリスム(形骸化している)的で、あらゆるフレーミングの中で最も凡庸で何の変哲もない、陳腐とさえ言える「日の丸構図」は、虹夏がこの台詞を「当たり前のこと」として捉えていることの現れだ。だからこそ、このショットの台詞の破壊力が、ひとりに突き刺さっているのが視聴者にも伝わってくる。

レイヤー・トラック・アップ」或いは「レイヤー・トラック・バック」は、特定のレイヤーだけトラック・アップ(ズーム・イン)やトラック・バク(ズーム・アウト)する手法。

上記の図例では、ひとりの顔のサイズはそのままに、後景の喜多の顔だけトラック・アップして徐々に大きくなっていく。そうすることで、喜多の、ひとりが「バンドらしくなるために」どんなアイデアを出してくるか、という期待が高まっていく過程を、表象的に表現する。

スクリーン・ダイレクションでキャラクターの心情変化を描く

「無責任に現状を肯定する歌詞は書きたくない」と言いつつ、取り敢えず歌詞を書き出すひとり。

そういったネガティヴなひとりの心情が、スクリーン・ダイレクションにも反映されている(右向き/左向きは前回の②参照)。

モンタージュ・シークエンス

宣材(宣伝材料)用に、アー写(アーティスト写真)を撮影するために、下北沢に集まった結束バンドメンバー一同。

良い撮影場所を探して周辺を歩き回る面々。

ある一連の行動をする際、一つひとつの行動を具体的に描かず、図例のようにストップ・モーション、或いはビジュアル・イメージをカット・バック・ショットを何カットかつなぎ合わせて提示していく手法を「モンタージュ・シークエンス」という。

今回もそうだが、多くの場合、BGMを台詞無しで流しながら、時間経過や物語の進行をイメージ的に描写していく。

新海誠監督作品『君の名は。』や『天気の子』で見た人は多いだろう。

虹夏が左手の指で1,2,3,と場所ごとにカウントしている。

そして虹夏は、5番目の候補地として、「良さげな壁」を挙げる。

第4話担当の演出さんに実際に訊いてみた

どうしても気になったので、ダイレクト・メッセージで第4話演出担当さんに訊いてみた。

なんでも、背景は、「いつも常にそこにあるもの」と「そうでないもの」とを、背景画とセル(もちろんセル・ルックの塗りという意味)で描き分けたという。

なるほど、だから右奥側の車もセルなのか。
そして、当然、キャラクターも「いつも常にそこにいる」もんじゃないからな。

「イマジナリー・ラインを無視する」という選択

イマジナリー・ラインを考慮すると、標準的な会話シーンのフレーミングでは、ある人物を画面の左寄りに配置した場合、次のショットで映される相手の人物は、画面の右寄りに配置するのが順当だ。

しかしこのシーンでは、
①左側に配置され、画面右外側にいる虹夏とリョウに話しかけた喜多が
②次のリバース・ショットでは、彼女は右寄りに移動し、話しかけられた虹夏とリョウが左側に。この時点でイマジナリー・ラインは無視されている。
③そして更にカメラはイマジナリー・ラインを越え、喜多が左側に移動
④そしてまたカメラはイマジナリー・ラインを越え、リョウの右側に回って、③で画面左側から話しかけていた喜多と同じ位置から、画面右側に向かって独白

結果、各人物は、「フレーム・シェア」して同じ画面左側にいて、一様に画面右側に向けて語りかけている形となる。

ここで、画面の左右の意味合いを考えてみたい。

画面左側の人物配置は「ネガティヴ」で、不安や悲しさ、寂しさを意味するものだった。そして、画面左側から右側への視線や移動は「ポジティヴ」で、上昇志向、希望、上向きの意思を含有していた。

もちろん、これらは飽くまでも「目安」であり、絶対的な法則や規則ではない。では、それを確かめるために台詞を確認しておこう。

1.リョウ「昔ながらの店が、どんどん消えていく」
2.虹夏「リョウ、新しい本や出来て喜んでたじゃん」
  リョウ「うん。B&C(下北沢に実在する本屋B&Bのモジリと思われる)好き」

1.では、馴染みの店が消えていき寂しさを感じているが、2.では、新しく出来た店への興味を示すリョウ。

つまり、感情的に1.はリョウの配置と一致し、2.は、リョウの視線の方向と一致する。

例えば、次のシーンの場の演出と比較してみて欲しい。

中心にいる虹夏から、左側にいるリョウのピンショットそして、右側にいるひとり+喜多のグルーピング・ショットへ。

イマジナリー・ラインをまたがないカッティングの自然さと安定感。

シーンのイメージを具体化してシークエンスを繋げる

カットとカットをどう繋げてシーンにするのか、シーンとシーンをどう繋げてシークエンスにするのか? 前のシークエンスと後のシークエンスは、一連のストーリーの流れに則して繋がっているように見えるか? トランジッションはワイプ? ディゾルブ? 場面転換は演出プランに沿っているか? 観客の緊張感は途切れないか? 逆に、観客が前のシークエンスの気分を次のシークエンスに引きずらないようにちゃんとリフレッシュ出来るか?

カット、シーン、シークエンスの繋がりの概念図

いくらよくできた物語や脚本でも、カットとカット、シーンとシーン、シークエンスとシークエンスの切れ目(文章に当てはめれば、句読点や接続詞、改行や段落に相当する)をどう演出するかによって、観客が抱く作品の全体的な印象は大きく異なってくる。

 映像作家は、一つひとつのショットを「どう撮影するか」に夢中になるあまり、それらをどういうふうに繋げて(つまり「編集」)観客に見せるかを、編集室に入ってハサミを握る直前まで具体的に考えていなかった、という自体に陥りがちだ。

その結果、どうしても新たなカットが必要になったり、どうしても繋がりが不自然に見えてしまったり。

第4話のこのシーンは、アー写の撮影場所を探していたメンバーに、途中で何かに気づいたぼっちが、「良さげな壁」を見つけたと報告してくる。

ひとりが「良さげな壁」に気付くショット

「壁」は、「乗り越えるべき課題」や、「課せられた問題」のメタファー(暗喩)だから、「歌詞を書く」という「宿題」を抱えているひとりが、探している「壁」を見付けるのは、物語の流れとして当然なのである。

しかし、いくらそうだとしても、ひとりがいきなり「壁」を見つけて来るのは、あまりにもご都合主義的だ。そこで、事前に「ひとりが何かに気付く」という伏線を張っておき、後でそれを明らかにするという後説法を使うことで、不自然さの回避とストーリーの展開に説得力を与えている。

そして、なかなか満足のいく写真を撮れないひとり。
「壁」の前で「女子高生としての壁」を感じるひとりなのであった。

スクリーン・ダイレクションとアンバランスな構図の意図

つぎに、新曲の歌詞を書きあぐねていたひとりが、本格的に歌詞を提出する(あ、詩先なんだ・・・)前に、誰かに詩の方向性を事前に確認しておこうと、取り敢えず書き上げていた歌詞をリョウに見てもらう場面。

話をどう切り出そうか迷っているひとりに、「早く貸し歌詞見せて」と催促するリョウ

ひとりが歌詞をリョウに渡す直前、それまで並んで座っていた彼女たちを正面から捉えていたカメラが、突然その背後に回り、ひとりを画面左側、リョウを画面右側に配置。

画面右側が「強」、左側が「弱」だから、ここでシークエンスの内容とスクリーン・ダイレクションとが一致するが、以降、ずっとその位置関係がキープされる。

「歌詞ノート」の画面右から左への移動

しかし、次のカットでカメラはリバース・ショットになり、ひとりからリョウに渡されるノートは、アップ・ショットで画面右から左へ移動させられる。

「物の受け渡し」も、方向性のある移動だからか、ここにもスクリーン・ダイレクションが適用されるている。

画面上の右から左への移動は、視聴者の左から右への視線移動と拮抗する動きで、その物体があたかも向かい風に向かって移動しているように見え、無意識に抵抗感を感じるので「ネガティヴ」で、「意識の低さ」や「敗北感」、「下向きの力」「絶望」「困難に直面した」などを表せられる。

次に、フレーム外でノートを読んでいるリョウを見つめる(この状態をルック・アットという)、ひとりのミディアム・クロースアップのショット。

通常、リョウは画面左フレーム外側に位置しているので、本来は画面左(下手)側の余白、つまり「ルッキング・ルーム」を右(上手)側の余白より広くとるのものだが、このショットでは逆になっている。さらに、ひとりは画面左側をルック・アットしているのに、彼女の顔は右向きだ。そして、ひとりの顔の位置が、画面の中心線からやや左側にズレていることもポイントだ(その意味合いは言うまでもないだろう)。なお、ヘッド・ルームがなく頭部がクロップ(切り取る)されているのは、このサイズのフレーミングでは標準的。

このように、安定性のある通常の構図を敢えて外し、アンバランスなレイアウトにすることで、構図が停滞し、キャラクターの置かれている状況に則した、緊張感や先行きの不安感などを表すことが出来る。

ガラスの反射を利用した創造的なステージング

上:自分の書いた歌詞をリョウが読み終わるのを待つひとり
ひとりの頭越しショット(OTH)で、歌詞を読むリョウの姿が窓ガラスに映る。
カメラが、反射物に映った被写体を写すことを「リフレクションReflection」という。
反射物に映った被写体は、ある意味で「幻影」だ。キャラクターがいる世界の中の「現実」をダイレクトに見せる代わりに、その「幻影」を見せることで、それがそのキャラクターにとって「真実でないもの」「虚構」「本心でない偽りのもの」であると仄めかしている。

下:以前所属していたバンドの話をするリョウの話を聞くひとり
これは、カメラが、二人の正面にある窓ガラスを、彼女たちの間から捉えたショット(実写ではまず不可能なカメラ・ワーク)。
リフレクションされた二人は――相変わらずひとりは左側、リョウは右側に配置されている――、十分な距離を保って画面の左右に振り分けられ、デカドラージュ(脱フレーミング)されている。
このことにより、二人の「歌詞」の方向性に対する考えに「対立」「溝」「距離感=違い」のあることが暗示されている。

また、窓の外に見える建物の、幾何学的で無機質なタイルの模様が、「(ひとりが)考えて作ったつまらない歌詞」の象徴記号として機能している。

一周回って元に戻る~時間経過の仄めかし

物語の構成法はいくつもあるが、「最初」と「最後」を一致させる「アーチ構造」は、全体の統一感を感じさせるには最強の構成だ。

図例上は、冒頭部(アバン)のstarryの内部描写と対応している。

このように、「場の演出」によって統一させることもできるが、もうひとつ、「映像の演出」によっても統一を図ることが出来る。

図例下は、喜多がギターを練習している手元のアップで、最初と最後で原画は兼用(同じ原画が使用)されている。

しかし、ダイジェスティック・サウンドで流れるその演奏は異なり、技術的にかなり上達していることが分かる。演奏し終わった際の喜多の表情も満足げだ。

つまり、ここでは、同一のビジュアルが使用され、「映像の演出」によって統一がされているが、喜多のギター演奏の違いによって、二つのカット間で時間が経過していることが示されている。

この喜多の演奏シーンの後、ひとりが歌詞を書き上げたシーンになるが、ひとりが歌詞を書き上げるまで、それだけの時間(少なくとも喜多が自分で満足できる演奏ができるようになった程度には)が経ったということなのだ。

そしてエピソードのオチは、ひとりがアー写を部屋一面に張り巡らせているという、狂気迫る描写となるが、

映像はアー写のアップ・ショットから、カット・ズーム・アウトでカメラが次第に後退し、ワイド・ショットになって部屋の全体像が見えてくるという演出が施されている。カット・ズーム・アウトは、滑らかにカメラが後退していく通常のズーム・アウトと比べて、印象が少し強くなる。

また、カメラが後退してアップ・ショット(オープン・フレーム)からワイド・ショット(クローズド・フレーム)へと、フレーミングが変化することをプル・バックといい、通常は、そのシーンの内容から心理的に遠ざかって行く意味合いのプル・バック・リトラクションとして使われるが、このシーンのように、シーンの状況の全体像を明かす目的で使うことをプル・バック・リヴィールという。

同じテクニックでも、使用する意味合いによって名称が異なる典型的な例だ。

それでは、今回は、ここまで。

次回は、第5話をお送りいたします。

あと、ご意見、ご感想の他、「SEって何?」とか、この用語わからねーよ!というどんな細かなご質問も構いませんので、ご気軽にどうぞ。というか、お待ちしています。

第1話、第2話の記事はこちら。

第3話の記事はこちらです。

あと、ご意見、ご感想の他、「SEって何?」とか、この用語わからねーよ!というどんな細かなご質問も構いませんので、ご気軽にどうぞ。というか、お待ちしています。

『ぼっち・ざ・ろっく!』DVD&ブルーレイ第2巻(第3話、第4話収録)
2023年1月25日発売(ジャケット絵は仮)


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