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え、もうオワコン?             アメリカ最後のロマン派作曲家

今回は、アメリカのクラシック音楽作曲家、サミュエル・オズモンド・バーバー2世(Samuel Osmond Barber II、1910年3月9日 - 1981年1月23日)についてです。

■作曲家になるまで

バーバーは、1910年3月9日ペンシルベニア州ウェストチェスターで生まれる。父親は医師、母親はアイルランド系のピアニストであり、その家族はアメリカ独立戦争の時からアメリカに住んでいた。さらに母方の叔母、ルイーズ・ホーマーは、メトロポリタン・オペラの主要なコントラルトであり、叔父、シドニー・ホーマーは、アメリカの芸術歌の作曲家であった。

バーバーは非常に幼い頃から音楽に深く興味を持ち、6歳でピアノを学び始め、7歳で最初の作品、ハ短調23小節のピアノ独奏曲《悲しみ》を作曲する。10歳のときには、最初のオペレッタを書いたが、12歳になると、地元の教会のオルガニストになった。14歳になると、フィラデルフィアのカーティス音楽院のユース・アーティス・トプログラムに参加し、作曲、声楽、ピアノの三重の天才としての才能を伸ばしていった。

18歳のときには、ヴァイオリン・ソナタでコロンビア大学からジョセフ・H・バーンズ賞を受賞(現在は作曲家によって紛失または破壊)。

そして1931年、21歳のときに作曲された最初の大規模なオーケストラ作品《悪口学校》序曲で2度目のバーンズ賞を受賞する。《悪口学校》は、作曲から2年後、アレクサンダー・スモーレンス指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演される。

1934年の春にカーティスを卒業すると、ピューリッツァー旅行奨学金の助けを借り、ウィーンで指揮、声楽のさらなる研究を追求した。すると彼はすぐにローマ賞を受賞し、1935年から1937年までローマのアメリカン・アカデミーでさらなる研究を追求することになる。1946年になると、グッゲンハイム奨学金を授与され、ジョージ・セルに個人的に指揮を学ぶにいたった。

■最初の成功

国際的な注目を集めたバーバーの最初のオーケストラ作品は、ローマで作曲を学んでいるときに書いた交響曲第1番だ。この作品は、1936年12月にベルナルディーノ・モリナーリの指揮で、ローマ・サンタチェチーリア国立アカデミア管弦楽団によって初演され、その後すぐにニューヨークとクリーブランドの交響楽団によって再演されていく。

また、この作品は、1937年にザルツブルク音楽祭で演奏され、同音楽祭でアメリカ人作曲家による最初の交響曲となった。

バーバーは、ニューヨークでの演奏の際、この交響曲について次のように語った。

私の交響曲1番の形式は、4楽章の古典的交響曲を総合的に扱ったものです。これは、最初のアレグロ・ノン・トロッポの3つのテーマに基づいており、作品全体を通して基本的な特徴を保持しています。アレグロ・マ・ノン・トロッポは、メインテーマ、より叙情的な第2テーマ、エンディング・テーマの通常通りの提示で始まります。3つの主題の短い展開の後、慣習的な回想の代わりに、最初の主題がスケルツォ(ヴィヴァーチェ)の基礎を形成します。第2主題(ミュートされた弦の上のオーボエ)は、拡張されたアンダンテ・トランクイロで拡大されて現れます。強烈なクレッシェンドは、第1主題(チェロとコントラバスによって導入)に基づく短いパッサカリアであるフィナーレを導入し、その上に他の主題のとともにエンディング・テーマが織り込まれ、交響曲全体の要約として機能します。

そして1938年、バーバーが28歳のとき、《弦楽のためのアダージョ》が、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮NBC交響楽団によって、彼の《管弦楽のためのエッセイ》第1番とともに演奏される。

《アダージョ》は、弦楽四重奏曲作品11の緩徐楽章をオーケストレーションしたもの。

弦楽四重奏曲は、カーティス音楽院の学生時代からバーバーの親友であったイタリアの作曲家、ジャン・カルロ・メノッティとヨーロッパで夏を過ごしていた1936年に作曲されたもの。ウェルギリウスの教訓的な詩『Georgics(農耕詩)』に触発されて作曲を始めたとされる。
トスカニーニは、1933年に指揮したハワード・ハンソンの交響曲第2番以外、アメリカの作曲家の音楽をほとんど演奏したことがなかった。

作品の最初のリハーサルの終わりに、トスカニーニはバーバーに「Semplice e bella」(シンプルで美しい)と述べたという。

*トスカニーニによる初演の実況録音

*ヴァイオリン協奏曲(1939年)


■成功の後

《アダージョ》の初演の後、バーバーは1939年から1942年までフィラデルフィアのカーティス研究所で作曲を教える。

しかし、1942年になると、バーバーは陸軍航空隊に加わり、終戦までそこで勤務を続ける。バーバーはそこにいる間、ボストン交響楽団のために、チェロ協奏曲や交響曲第2番など、いくつかの作品を書くように依頼される。

交響曲第2番は1943年に作曲され、1944年初頭にセルジュ・クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって初演された。バーバーは1947年に交響曲を改訂し、スコアが出版された翌年の1951年、バーバー自身が指揮するロンドンのニュー・シンフォニー・オーケストラによって録音される。

*チェロ協奏曲(1945年)

*管弦楽のためのエッセイ第1番(1937年)

*管弦楽のためのエッセイ第2番(1942年)

■タイトル
戦後になると、バーバーは、まずコロンビア大学のディットソン基金から同時高名なダンサーであったマーサ・グラハムのために委託されたバレエ《メデア》を書く。この作品は、1946年5月10日、ニューヨークのコロンビア大学マクミリン劇場で初演された。

次に、バーバーは、ソプラノのエレノア・スティーバーから委嘱され、1948年にセルジュ・クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって初演されたジェームズ・エイジによる1938年の短い散文詩からインスパイアを受けた《ノックスビル:1915年の夏》を発表する。

1949年になると、バーバーはピアノ・ソナタを発表。
このソナタは、アメリカで新しい作品の促進を援助する作曲家連盟の25周年を記念して、アーヴィング・バーリンとリチャード・ロジャースによって委嘱され、ウラジミール・ホロヴィッツが初演して大変な好評を得た作品だ。あまり聴かれることはないが、バーバーの作品の中で最も激しくモダンな響きの音楽で、プロコフィエフの「戦争ソナタ」さえ彷彿とさせる。

ホロヴィッツは、1949年12月9日にキューバのハバナでソナタを初演。続いてクリーヴランドと首都ワシントンD.C.で公演を行い、1950年1月23日にはカーネギーホールで演奏をした。

■1950年代と60年代のコントラスト
1950年代、バーバーは《隠者の歌》(1953年)、《キルケゴールの祈り(ソプラノ、合唱と管弦楽》(1954年)、木管五重奏のための夏の音楽(1956)、オペラ《ヴァネッサ》(1957年)、《ノクターン》(ジョン・フィールドへのオマージュ)》(ピアノ)(1959年)、室内オペラ《橋の手》(1959年)などを書く。

それらの中で、オペラ《ヴァネッサ》がピューリッツァー音楽賞を受賞したりするが、レパートリーに定着して繰り返し演奏されるような重要な作品は生み出してはない。

しかし、1960年代になると、状況は一変する。

まず、1960年にはオルガンと管弦楽のための《トッカータ・フェスティーヴォ(祝典トッカータ)》を発表。

次に、1960年には、音楽出版社G.シャーマーが創立100周年を記念して、ピアノ協奏曲をはじめ、三曲を委託される。

ピアノ協奏曲の初演は1962年9月24日、マンハッタンのリンカーンセンターに建てられた最初のホールであるフィルハーモニックホール(現・デビッド・ゲフィン・ホール)のオープニング・フェスティバルで、ジョン・ブラウニングの独奏、エーリッヒ・ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団によって行われる。

このピアノ協奏曲により、バーバーは1963年に2度目のピューリッツァー賞を受賞。1964年には音楽批評家協会賞を受賞した。

リンカーンセンターのオープニングのために演奏された2番目の作品は、1963年4月にトーマス・シッパーズ指揮ニューヨーク・フィルとソプラノ、マルティナ・アロヨによって初演された、ソプラノとオーケストラのための《アンドロマケの別れ》である。

そして、リンカーンセンターのために作曲された三曲目の曲は、1966年9月16日に、レオンタイン・プライスとジャスティーノ・ディアスがタイトルロールを務めて、新しいメトロポリタン・オペラ・ハウスのオープニングで初演された彼の3番目で最後のオペラ《アントニーとクレオパトラ》である。

この作品は批評家にはあまり快く受け入れられなかったが、バーバー自身は彼の最高の音楽のいくつかが含まれていると信じ、初演後の10年間、オペラの改訂に費やした。

この、自信作であるオペラの失敗は、今までずっと失敗知らずだったバーバーにとって、想像以上の影響を与えた。

オペラの後、バーバーは、うつ病とアルコール依存症と闘うことを余儀なくされたが、作曲は止めなかった。

中には、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団、フィンランドのバリトン、トム・クラウス、ロバート・ペイジ監督のテンプル大学合唱団との公演で1971年に初演され、聴衆や批評家に好評を博したカンタータ《恋人たち》や、《管弦楽のためのエッセイ》第3番(1978)のような力作・大作も生まれたが、1978年にリンパ腺ガンが発覚し、闘病先の病院で1981年1月23日に亡くなる。

*カンターター《恋人たち》
初演の実況録音

*《管弦楽のためのエッセー》第3番

バーバーは、十二音技法も時には使ったし、プロコフィエフやバルトークのような辛辣なリズムと不協和音も好んだが、基本的には新古典的なロマン派である。

バーバーの2歳上にはエリオット・カーターがいて、2歳下にはジョン・ケージが控えており、アメリカの音楽界は、次第に無調・セリー音楽から実験音楽へとシフトしていく。

そのような風潮の中、アメリカ国民に愛され、最後まで彼の芸術は守られてきた。名実ともに、バーバーは、アメリカ最後のロマン派作曲家だといえるだろう。

しかし、そうなると、アメリカのロマン派作曲家って、1890年代から1910年のわずか20年の間に生まれた作曲家しかいないんだよなあ。

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